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自由の騎士現る

市場原理主義新自由主義、自由放任主義、野放し資本主義――。今、日本中で、いや世界中で、市場經濟や經濟的自由を非難する聲が勢ひを増してゐる。格差擴大も、金融危機も、地球温暖化も、人心の荒廢も、スノボー選手の服裝が個性的すぎるのも、すべてアメリカかぶれの市場原理主義者どもが惡いといふ話になつてゐる。

もともと資本主義に敵意を抱いてゐた輩が、世界的な金融危機や不況をきつかけに、ここぞとばかりに經濟的自由を罵るのはまだしも、ついこの間まで市場經濟の擁護を叫んでゐたはずの者までもが、市場原理主義者のレッテルを貼られたらお終ひだと云はんばかりに、自由の抑壓者に色目を使ふ始末だ。曰く「行き過ぎた市場主義はいけない」「市場と社會のバランスが大切」「政府は市場を賢く使へ」……。

とんでもない話だ。市場は猛獸でも龍卷でも暴走機關車でもない。人と人とが財やサービスを自發的に交換する場にすぎない。AとBが互ひに持つてゐる本やCDを合意の上で交換する。これも立派な市場取引だ。二人は互ひに望むものを手に入れ、しかも他人に一切迷惑をかけない。一方が勞働者で他方が企業の經營者、交換するものが勞働力と賃金であつても、本質は同じことだ。經濟的自由は人々を飢ゑと貧困から救ふ原動力であり、政府こそ平和と繁榮と道徳を破壞する元兇なのだ。

個人が自らの幸福を追求するために經濟的自由は缺かせない。しかし現代は國家主義といふカルト宗教が人々の間に深く根を下ろしてゐるために、自由の擁護があたかも不當な主張であるかのやうに敵視される。あるいは「經濟的自由は政治的・精神的自由に比べれば値打ちが低い」などといふデマを吹き込まれる。市場原理主義が集中砲火を浴びる一方で、國家原理主義は社會正義の美名の下に大手を振つてまかり通る。

經濟的自由の「行き過ぎ」に眉をひそめ、政府によるその抑壓を安易に受け入れる者は、やがて政治的自由や言論の自由も同じ運命をたどることに氣づかない。怖ろしい暴風雨も最初に見える黒雲は豆粒のやうに小さいことを知らない。

私、自由の騎士、世を忍ぶ假の本名木村貴は、この現状に危機感を抱き、世にはびこる反自由主義、反資本主義、反市場主義の謬論を正さんと雄々しく立ち上がつた。蟷螂の斧と笑はば笑へ、義を見て爲さざるは勇無きなりと言ふではないか。愛馬にうちまたがつたつもりで、いざ出陣。

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