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なぜ「旧字旧かな」なのか

さて本論を始める前に一言説明しておきたい。さう、私のこの文章の書き方のことである。ええと、「旧字旧かな」ていうんだっけ、これ? なんでわざわざこんな古臭い書き方すんの? こいつは戦前生まれのジジイか? それとも小難しい字を使ってインテリぶってるだけ? どうでもいいけど読みにくいっつーの。誰が読むかこんなもん。氏ね。……ここまで冷たい人はゐないと信じたいが、大多數の人にとつて最初抵抗があるのは事實だらう。いや「最初」も何も、一目見ただけでドン引きして二度と來てくれないかもしれない。

それでもこの表記を變へるつもりはない。このブログが標榜する自由主義と密接に關係してゐるからだ。個人の表現形式はその人自身が決めることだ。本人が日本語で話したがつてゐるのに、國家權力が「英語で話せ」などと命令するのは自由を侵害する横暴な行爲にほかならない。

ところが戰後の日本では、「英語で話せ」といふ命令と同じくらゐ横暴な政策が實施された。「国語改革」といふ奴だ。

私の国語教室 (文春文庫)

難しい漢字は使はないやうにしませうなどと政府が勝手なお觸れを出し、それにまたマスコミが同調して、その結果、「ら致」だの「完ぺき」だの「軽べつ」だの、みつともない表記が堂々と使はれるやうになつた。かうした「交ぜ書き」は最近さすがに減つてきたが、政府は相變はらず、使へる漢字に「釜」を加へて「銑」を外すだの、「柿」は入れるが「聘」は見送るだの、血税を使つて表現の自由を妨碍することばかり考へてゐる。

かなづかひについても同樣で、昔は「思はない、思ひます、思ふ、思へば」とハ行の中できれいに活用してゐたのに、改革で「思はない」を「思わない」、「思ひます」を「思います」などと書くやうにしたため、「思う」は文法上、ワ行とア行にまたがる奇怪な動詞になつてしまつた。こんなものは文法と呼ぶに値しない。文法とは言葉の法則のことなのに、現代の日本語文法には法則がない。そんな代物を丸暗記させられたら國語嫌ひの子供が増えるのも當然だ。

私は別の場所でかうした問題について書いたこともあるが、所詮素人だし、これ以上熱辯を振るつてもみなさん退屈すると思ふので、興味がある人は專門のサイトを覗いてほしい。萬が一、自分でも書いてみたいと思ふ方がいらつしやつたら、たとへばこのオンライン變換ツールを試してもらひたい。

ともかく、自由を愛し強制を憎むリバタリアン自由主義者)としては、幾多の個人による文化の蓄積を無視して政府が押しつけた方針に唯々諾々と從ふわけにはいかない。といふわけで私はこのブログで「旧字旧かな」を使ふことにする。この表記が完璧だなどと言ふつもりはない。のところ、「旧字旧かな」も明治政府によつて採用されたものだ。しかし明治の表記は江戸以前の知的傳統(の少なくとも一系統)を尊重し繼承してゐたから、戰後の出鱈目な改革に比べれば遙かにましだ。

「一目見ただけでドン引きして二度と來てくれないかもしれない」と書いたが、本當はそれほど悲觀してゐない。外國の小説が好きで、飜譯本が出る前にわざわざ原書を買つて讀む人もゐるではないか。それに比べればこのブログは少なくとも日本語だし、しかもタダだ。技術的にちよつと面倒ではあるのだが、ブログの更新に決定的な支障がない限り、多少のやせ我慢をしてみようと思ふ。

斷つておくが、自分がかういふ書き方をしてゐるからといつて、その信條を他人に強要する氣は毛頭ない。それは何より自由主義に反することだ。コメントをつけてくださる場合にはもちろん「普通」の書き方で構はないし、引用する場合には「普通」の表記に「飜譯」してくださつても結構だ。

それではいよいよ本論に入らう。最後に念のため言つておく。私は戰前生まれではありません。

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