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元リフレ派シンパの告白

このブログでは市場經濟に對する政府の介入を徹底的に批判してゆく方針だが、批判の對象となる「政府の介入」には當然、政府・中央銀行による金融政策を含む。金融政策とは貨幣に對する政府の恣意的介入にほかならないからだ。政府が田舎にダムや道路を造ることには反對するのに、經濟の隅々を驅け巡る貨幣への介入を當然視して、果たして眞のリバタリアンと呼べるだらうか(いや呼べない)。

私、自由の騎士こと木村貴ははばかりながら眞のリバタリアンとして、一切の金融政策に反對するから、勿論いはゆるリフレ論にも反對する。リフレ論とは政府・中央銀行が市場に大量の貨幣を供給してインフレを起こし、景気回復を目指すといふ主張だ。

さてここからが今囘の本題だ。大きな聲では言へないが、實はこの私、リバタリアン思想に目覺める以前は、リフレ論を熱心に支持してゐた。具體的には、さう、2004年頃まで。仕事上のことなので詳しくは書けないが、金融系メディアでリフレ論を肯定する記事を書いたり、リフレ派の何人かのエコノミストにお願ひしてコラムを執筆して貰つたりしてゐた。

デフレの経済学

私がリフレ論に熱を上げたのは、岩田規久男デフレの経済学』(東洋経済新報社、2001年)を讀んでからだ。經濟にまつはる俗説をばつさりと斬つて捨てる『日経を読むための経済学の基礎知識』(日本経済新聞社、1988年)や政府の銀行保護行政を呵責なく批判した『金融法廷』(同、1998年)などの著作によつてすつかり岩田ファンになつてゐた私には、『デフレの経済学』も説得力ある内容に思へた。

リフレ派には總大將格の岩田教授の他にも、高橋洋一田中秀臣、野口旭、若田部昌澄、岡田靖安達誠司飯田泰之といつた多くの論客がゐた。私は彼らの本を夢中になって讀み、何人かの方にはお目にかかりもした。その後、皆さんさらに活躍されてゐるのはご存じの通りだ。

著作一册あるわけでもない私が「リフレ派」だつたといへば、をこがましい限りだらう。だが熱烈な「リフレ派シンパ」だつたことは間違ひない。

しかし、つひに訣別の秋がやつて來た。

正確にいつだつたかはよくわからない。ただリフレ論に熱中してゐた私は、同時にリバタリアン思想にも興味を持ち始めてゐた。「ハイエクはリフレ政策に賛成するかな」。ある日、こんな疑問が初めて腦裏をかすめたのを覺えてゐる。もちろん中央銀行による貨幣發行獨占そのものに反對するハイエクがリフレ政策なんかに賛成するはずはないが、なにしろリバタリアン初心者なので、そんなこともわからなかつたのだ。

だがミーゼスハイエクロスバードオーストリア學派(リバタリアン經濟理論で最有力の一派)の經濟學を自分なりに勉強するうちに、「リフレはダメだ」と考へるやうになつた。今ではリフレ論ほど主流派經濟學の知的倒錯を如實に示すものはないと確信してゐる。

といふわけで自分がかつて支持した議論を批判するのは氣が引けるし、一部のリフレ派エコノミストの方は私がいつの間にか内心裏切つたとも知らず年賀メールのやりとりをしてくださつてゐるのだが、猫をかぶつてゐた私がいきなりリフレ批判を書きまくつてゐることを知つたらさぞ驚かれるだらうと思ふと、さすがに心苦しいものがある。
デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)
だが仕方ない。經濟系のブログとしてこの局面でリフレ論の是非について書かないわけにはいかないし、書く以上、嘘は書けない。多くを學ばせてもらつたことに感謝しながら、眞劍なリフレ批判(もちろん批判の對象はリフレ論だけではないが)を書いてゆく所存だ。

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