民主主義者 西部邁

世間の大半の人は、自由主義と民主主義は似たやうなものだと思つてゐる。だが兩者は全く別物だ。それどころか正反對の理念ですらある。

自由主義*1は政府が個人の自由を束縛することに反對する。したがつて政府の權限を可能な限り小さくすることを要求し、最も徹底した論者の場合、政府そのものの存在すら拒否する。アナルコ・キャピタリズム無政府資本主義)と呼ばれる立場だ。

だが民主主義が政府の存在を否定することはあり得ない。あくまでも政府の存在を前提とし、そのうへで政治の主體に國民を据ゑるやう主張するにすぎない。だから民主主義は、政府が個人の自由を侵害しかねない、あるいは現に侵害してゐるといふ根本的な問題を解決できない。政府自身の肥大に齒止めをかけることもできない。多數決に頼るため「多數派の專制」を招く危險すらはらんでゐる。

民主主義のかうした問題は、すでに西洋では多くの識者によつて指摘されてきたが、日本では皆無に等しい。民主主義批判めいたことを主張する論者は存在するが、大半は僞物だ。さうした僞物の一人が、評論家の西部邁だ。

西部氏は1983年に『大衆への反逆』を上梓して以來、民主主義批判の代表的論客と見られてきた。だがその内容は論理的に全く首尾一貫してをらず、讀むに堪へない。

民主主義とは所詮、政治制度上の問題にすぎないから、民主主義がまずいと思ふのであれば、代替的な政體を提案すればよい。

たとへば、ドイツ出身で現在はアメリカの大學で教へてゐる、ハンス=ヘルマン・ホッペといふ無政府資本主義者のエコノミストがゐる。ホッペにとつて理想的な「政體」はもちろん無政府だが、さうでなければ「民主制より君主制の方がまし」といふ。理由はかうだ。君主にとつて國の有形無形の財産はすなはち自らの私有財産であり、子孫に受け繼ぐものでもあるから、自然の感情として、長期的にその價値を高めたいと願ふ。一方、民主制で選ばれた政治指導者にとつて、國の財産はたかだか國民から一時的に管理を任されたにすぎないし、子孫に遺すこともできないから、價値を高めようといふ氣にならない。それどころか「後は野となれ」とばかりに、私利のために國の資源を浪費する。實に理路整然とした見解だ。*2

Democracy™the God That Failed: The Economics and Politics of Monarchy, Democracy, and Natural Order

それに引き替へ、西部氏は民主主義を批判しておきながら、決して民主制に代はる政體を提唱しない。無政府主義はおろか、「保守」を名乘るくせに君主制の復活を説いたこともない*3。アメリカ流民主主義は口を極めて罵りつつ、イギリス流民主主義は相好を崩してほめそやす。實にいい加減だ。最近ウェブで公開された産經新聞正論*4でも、相變はらず不徹底で、杜撰な民主主義批判を展開してゐる。

「正論」で西部氏は、自民黨の内部から「保守再生」の聲が舉がつてゐるものの、「保守」の意味が明らかにされてゐないと批判する。そして保守の據り所となるべき「歴史的なるもの」の重要性を強調し、それが戰後六十五年間、破壞に任されてきたと憤る。ここまでは何と言ふこともないが、見過ごせないのは、次にある「それを放置してきたのは、ほかならぬ自民党の責任である」といふ一文だ。

これはいかにも自民黨べつたりの西部氏らしい大甘な、いや欺瞞的な表現だ。西部氏は認めたくないだらうが、戰後六十五年間、自民黨は誰かが「歴史的なるもの」を破壞するのを「放置してきた」のではない。自ら積極的に破壞を推し進めてきたのだ。戰後の長きにわたり政權の坐にあつたのは社會黨でも共産黨でもアメリカでもない。自民黨だ。全國に無用のダムや林道を造つたのも、無原則な建築規制で醜い町竝みを出現させたのも、傳統的な國語表記を破壞したのも、すべて自民黨政權だ。

もちろん假に自民黨政權でなくても結果は同じだつたらう。ホッペのいふやうに、民主制そのものが「歴史的なるもの」、すなはち歴史的に形成されてきた有形無形の國の財産を破壞する性質を備へてゐるからだ。ここで當然、民主主義批判の雄ならば、民主制廢止を唱へるのが筋のはずだ。ところが西部氏は勿體ぶつた舉句、こんなことを書く。

民衆が「国民」であるならば、国家の歴史に秘められている英知のことをさして、主権という修辞を与えることも許されよう。

結局、「国民」に主權を持たせる、つまり民主制のままで問題なしといふ話ではないか。西部邁とはこのやうに見せかけだけの反民主主義者であり、假面を被つた民主主義者なのだ。そもそも民衆が「国民」と呼ばれるやうになつたのは民主主義國家が成立してからなのだから、せめて「臣民」と書くべきだ。「臣民」でなく「国民」としか書かないこと自體、西部氏が民主主義のイデオロギーに毒されてゐることを示してゐる。最後に極めつけだ。

これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう。

民主主義を敵視するといふ「仕事」を、よりにもよつて、民主主義國家の政治家に託すとは! 昔、秦野章といふ政治家が「政治家に徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれといふのに等しい」と放言したが、民主主義國家の政治家に民主主義を敵視せよとは、それ以上に無理な注文だらう。しかも命じる本人は假面を被つた民主主義者なのだから、何をかいはんや。西部氏自身の言葉を借りれば、これを「お笑い種」と呼ばずして何と呼ばう。

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*1:アメリカでいふ「リベラル」は直譯すると自由主義者だが、その正體は本來の自由主義と正反對の社會民主主義なので、この議論には當然當てはまらない。

*2:Hans-Hermann Hoppe,"Political Economy of Monarchy and Democracy" http://mises.org/daily/4068

*3:日本は立憲君主制だといふ議論もあるが、ホッペのいふ君主制、つまり君主が國の大半を私有する體制では當然ない。

*4:【正論】評論家・西部邁 国家を歯牙にかけぬ民意の堕落 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100316/stt1003160344001-n1.htm