課税は強盜である

長い歴史を持ち、誰もがそれを當然と思つてゐる制度を疑ふことは難しい。今の日本人からすると、江戸時代の御先祖樣が嚴しい身分制度の下に生きてゐたことなどほとんど信じられないし、逆に江戸の人々が我々を見たら、民主主義などといふ仕組みで政治指導者を決めてゐることにさぞ驚くことだらう。

そのやうな制度の一つが、税だ。税を疑ふことは民主主義を疑ふことよりさらに難しい。民主主義は西洋でもたかだか數百年の歴史しかないが、税は世界に國家といふものが誕生して以來、ずつと存在し續けてゐるからだ。と言ふよりも、國家とはそもそも税を取り立てるために生まれた組織なのだ。

ホッブズ、ロック、ルソーら啓蒙時代の西洋の哲學者は、國家は人々の自發的な合意に基づいて作られたといふ社會契約説を唱へたが、その後、有力な反論が現れた。その一つが十九、二十世紀の社會學者ら*1が唱えた説だ。それによると、國家の起源は武力による征服だつた。ある民族が他の民族を制壓した後、暴力で支配しつつ、恆常的に貢ぎ物を取り立てる仕組みを作り上げた。それが國家であり、貢ぎ物が税となつた。

古代國家の支配者は映畫「マッドマックス」に登場する惡役のやうな、いかにも盜賊然としたわかりやすい姿をしてゐたかもしれないが、民主主義國家の支配者は洗煉されたスーツに身を包み、物腰も柔らかだ。しかし國家が究極的には暴力による支配であり、課税が財産の收奪であるといふ本質には、いささかの變化もない。率直に言へば、課税とは強盜なのだ。

このやうに言ふと、多くの人は「たしかに税金を取られるのは嫌だが、強盜とは言葉が過ぎる」と眉をひそめることだらう。かう激怒する人もゐるかもしれない。「納税は國民の義務。強盜とは何事だ、この非國民!」

しかしどう考へても強盜は強盜だ。たとへば國語辭典で「強盜」を引くと、「力づくで、またおどして、むりやりに他人の財物を奪ふこと。また、その人」とある。課税はこの定義にぴつたりあてはまる。税金を拂はなければならないのに拂はずにゐると、一體どうなるだらうか。まづ督促状が來る。それでも放つておくと財産を差し押さへられる。場合によつては懲役になつたり罰金を取られたりする。國によつては死刑になる。まさしく「力づく」あるいは「おどし」によつて、「むりやりに他人の財物を奪ふこと」以外の何物でもないではないか。

おそらく「いや、自分は愛國心から自發的に税金を納めてゐる」と主張する人も一部にはゐることだらう。だが他の大多數にとつてはやはり強盗だ。試しに一度、納税をすべてカンパ方式にしてみるといい。愛國者の淨財だけで九十兆圓を超す豫算は組めないだらう。

さらにかう反論する人がゐるかもしれない。「民主的な政府は投票によつて選ばれてゐるのだから、課税に對し個々に反對する國民がゐても、國民全體としては自發的に應じてゐることになる」

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

これに對してはマレー・ロスバードが次のやうに反論してゐる。たとへ國民のうちの多數派が政府の政策實行に賛成してゐるとしても、それは國民全員の自發的行爲とは言へず、單に多數者の專制にすぎない。多數派が賛成しても殺人は殺人であり、竊盜は竊盜だ。そしてロスバードは次のやうに疉みかける。

もしさうでないなら、我々は、例へば、民主的に選出されたナチ政府により殺されたユダヤ人たちは殺されたのではなく、それは「自發的に遂行された自殺」にすぎない、と言はねばならないだらう――「自發性としての民主制」ドクトリンの、グロテスクだが論理的な含意であることは確かである。(森村進他譯『自由の倫理学勁草書房、2003年、194頁。原文は新字新かな)

ロスバードの指摘を繰り返さう。たとへ多數派が賛成しようと、殺人は殺人、竊盜は竊盜。個人の財産を力づくで奪ひ取る行爲は、どのやうな名で呼ばうと、強盜だ。

人間は他人の些細な犯罪に腹を立て、ウェブで徹底的に叩きまくることはあつても、とてつもなく巨大な犯罪には氣づくことさへないのかもしれない。私自身、精神的な本業こそ自由の騎士で、課税が強盜であると認識してゐても、肉體的な本業がサラリーマンといふ都合上、國家との戰ひはいつも源泉徴收で不戰敗だ。だが少なくとも「スペードをスペードと呼ぶ」ことだけは續けたいと思ふ。

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