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他人の金で生きる自由?

橘玲貧乏はお金持ち』(講談社、2009年)の「まえがき」(ウェブで公開されてゐる)はかう始まる。

この本のコンセプトは単純だ。/自由に生きることは素晴らしい。(3頁、強調は原文)

たしかに自由に生きることは素晴らしい。だがその自由をどう守るのか。答へを期待して本書を讀む人は、失望するだらう。それは橘氏が自由を侵害する敵を理解してゐないからだ。敵の名を國家といふ。

貧乏はお金持ち──「雇われない生き方」で格差社会を逆転する

同書が國家について言及してゐないわけではない。それどころか國家といふ語は至る所に現れる。にもかかはらずその理解が的外れなのだ。例へば、一氣に「あとがき」(同じくウェブで公開)に飛ぶと、こんな記述がある。

若者たちは、これまでずっと不公正な労働市場で搾取されつづけてきた。彼らには、国家を搾取する十分な権利がある。もちろん若者たちだけではなく、すべてのひとに国家という道具は開かれている。(303-304頁)

「国家を搾取する」とは、一見氣の利いた言ひ囘しだ。しかしよく考へるとをかしい。

まづ「搾取」といふ表現だ。例へば私(木村)が強盜から金品を奪はれ、それを奪ひ返したとしよう。このとき「木村が強盜から掠奪した」と表現することは妥當か。もちろん否だ。「掠奪」といふ言葉には不當に奪ひ取つたといふ意味がある。強盜が私から財産を奪ふことは不當だから「掠奪」と表現できるが、それを奪ひ返した私の行爲は正當であり、したがつて「掠奪」と呼ぶのはをかしい。同じやうに、國家が課税やインフレによつて國民から財産をかすめ取る行爲はまさに「搾取」と表現すべき不當な行爲だが、それを取り戻す個人の正當な行爲を「搾取」と呼ぶのはをかしい。

もしかすると橘氏は、財産を取り戻すといふ個人の正當な行爲をあへて「搾取」と表現することによつて、それが國家への報復である點を強調したいのかもしれない。だがもしさうなら、「搾取」の對象は國家でなければならない。言ふまでもないことだが、無關係な第三者を「搾取」したのでは、國家に對する報復にはならないからだ。

ところが橘氏が讀者に推奬する「搾取」の具體的方法を讀むと、その對象は國家ではあり得ない。例へば、政府系金融機關が提供する中小企業向け優遇ローンは一般の民間金融機關ローンに比べ金利が低く有利だから、大いに使へといふ。しかし政府系ローンの金利が民間より低いのは、國家が國民から卷き上げた税金で差額を補填してゐるからにすぎない。優遇金利を親の仇のやうに使ひまくつたところで、國家は痛くも痒くもない。國民からより多くの税金を搾り取れば濟むことだ。これでは報復どころか、搾取されてゐる國民の同士討ちだ。

搾取された國民が報復すべき國家とは、正確には國家の支配者層、つまり權力を使つて課税や規制で自らの地位と利得を維持してゐる政治家や官僚、そのおこぼれに預かつた特權的民間人でなければならない。だが橘氏が讀者に奬める報復とは、支配者層から財産を取り戻すことではない。官僚が天下つた政府系金融機關の窓口におとなしく竝ぶことなのだ。

19世紀フランスの經濟學者フレデリック・バスティアは、國家の本質を「皆が他人の金で生きようとするために作られた壯大な虚構」と喝破した。橘氏は「國家を道具として使へ」と推奬するが、それが「他人の金で生きろ」と奬めるに等しいことに氣づいてゐない。橘氏は「まえがき」で自由に生きることは素晴らしいと高らかに宣言したわけだが、他人から奪つた金で生きることは、自由な生き方とは呼べないし、素晴らしい生き方でもない。

橘氏は現代米國リバタリアンであるウォルター・ブロックの著書『不道徳教育――擁護できないものを擁護する』(講談社、2006年)の飜譯もしてをり、自由主義的な論客とみなされてゐる。その橘氏ですらこの體たらくなのだから、日本の自由主義の夜明けは遠い。

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