「アバター」と戰爭の正義

大ヒットした映畫「アバター」は、人間と宇宙人が戰ふ物語だ。だが普通のSF映畫と違ひ、宇宙人が地球を襲ふのではない。その逆だ。人間たちが異星パンドラの地中から稀少鑛物を手に入れようと、邪魔になる森林を切り倒し、古くから住む種族を武力で追放しようとする。これにその種族、ナヴィが立ち向かふのだ。

戰ふ相手が人間であるにもかかはらず、觀客は宇宙人であるナヴィ族にすつかり感情移入してしまふ。それにはもちろん演出の效果もある。ナヴィ族側は、戰ひの先頭に立つ英雄(元米海兵隊員の主人公が遠隔操作するもう一つの肉體)もその戀人も勇敢で美しいし、仲間も基本的に善人ばかりだ。一方、人間側は、冷酷な軍人とか強慾な企業社員とかろくでもない奴が多い。

だがそれだけでは、ナヴィ族が人間に對し反撃に打つて出る瞬間、この私のやうに、内心思はず「よし行け!」と聲をかけたくなるほど感情移入したりはしないだらう。觀客の氣持ちを動かすには、決定的な何かが要る。それは正義感の滿足だ。

この戰ひで、正義は明らかにナヴィ族の側にあり、人間の側にはない。だから觀客は心おきなくナヴィ族に感情移入し、人間への攻撃に快哉を叫ぶことができる。では一體なぜナヴィ族側に正義があると言へるのだらう。

それはナヴィ族の住まひである森に人間が侵入し、木を切り倒し、燒き拂ひ、ナヴィ族を追ひ拂つたからに他ならない。つまり人間がナヴィ族の正當な財産權を侵したのだ。

ナヴィ族の社會に財産權を守る法律があるのかどうかわからないが、そんなことを確かめるまでもなく、我々は人間側の行爲を許せないと感じ、それに對する報復を正義にかなふと判斷する。このことからわかるやうに、財産權の觀念は法律以前の道徳感情に根ざしてゐる。だからこそ人の心に強く訴へるのだ。もし古典的SF映畫「猿の惑星」のやうに、異星パンドラが實はかつての地球で、ナヴィ族によつて乘取られたものだつたとしたら、觀客がナヴィ族の進撃に聲援を送ることは決してあるまい。

アバター」の監督、ジェームズ・キャメロンは左翼的な思想の持ち主らしい。實際、やはり大ヒットした「タイタニック」では金持ちが惡人として描かれてゐたし、今囘の「アバター」でも、侵掠者を大企業の手先として描いたり、自然と一體化した生き方を稱揚して科學技術を敵視したりと、反資本主義的な臭ひが鼻につかないでもない。米國リバタリアンの間でも「アバター」への評價は賛否兩論のやうだ。

だがそのキャメロンでさへ、資本主義の根幹を支へる財産權までは否定してゐない。いやそれどころか、すでに述べたやうに、財産權の正義をドラマの鍵として肯定してゐる。政治信條としては財産權を否定したいのかもしれないが、それでは人の心を動かす映畫にならないことを作家として承知してゐるのだ。

アバター」でもさうだが、戰爭の正義を判斷するに際し、生命・財産の自由が侵害されたかどうかは一つの客觀的基準になりうる。例へば米國の場合、獨立戰爭は英國政府による自由侵害への抵抗だつたから正義の戰爭だが、イラク戰爭は米國人の生命・財産の自由がイラクによつて脅かされてゐるわけでもないのに行はれたから、殘念ながら、正義なき戰爭だ。

正義の基準には、民主主義を世界に廣めるといつた主觀的な「大義」を含めるべきでない。もしそれを認めるのなら、たとへば自分の信じる宗教を布教するため他人の家に押し入つたり入信を拒む者を殺したりすることも正義にかなつてゐると言はなければならない。

ところでキャメロンの元妻、キャスリン・ビグローが監督した「ハート・ロッカー」は、アカデミー賞で「アバター」と爭つた末、最多部門賞を勝ち取つたが、イラク戰爭を題材としたにもかかはらず、戰爭における正義といふ本質的問題に迫つた點では「アバター」の足元にも及ばない。「ハート・ロッカー」の米兵たちは、自分たちの戰つてゐる戰爭が正義の戰ひなのかどうか、一度も問ふことがない。それは人間として不自然ですらある。だから觀客は主人公の爆彈處理兵の度胸には感心しても、最後まで心を搖さぶられることがない。現實の戰場をストレートに描いた作品より、特殊效果や三次元映像を驅使した娯樂大作の方が戰爭の眞實を語る場合もあるのだ。

<こちらもどうぞ>