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共同體の秩序維持など(1)

野嵜さん

ケルゼンに據れば……

・共同體の一員が勝手に他人を殺すのは犯罪である
・勝手に他人を殺した共同體の一員を、共同體の秩序を維持する爲に共同體が死刑に處するのは犯罪ではない

……となつてゐます。

その邊の區別について、木村さんは如何御考へですか。(2010/04/10 16:26

個人に刑罰を與へ得るのは、個人の所屬する共同體です。(2010/04/13 22:30

私は「共同體の秩序維持」なるものに價値を認めません。少なくとも個人の生命・身體・財産を侵さないといふ道徳的價値よりも優先すべき價値だとは思ひません。秩序維持など所詮、政治的な價値にすぎません。野嵜さん同樣、私も「道徳的な立場からは、經濟的・政治的な條件は一切閑却され」ると信じてゐるのです。

私自身、殺人者を死刑に處すことは正當とみなします。その結論だけ見ればケルゼンと變はりませんが、私にとつて死刑は侵すべからざる個人の生命を奪つたことに對する報復であり、「共同體の秩序維持」が目的ではありません。ケルゼンのいふ共同體とは國家で、その意思決定機關は政府ですが、政府はあくまでも報復を代行する機關にすぎないと私は考へます。したがつて報復權の行使・非行使を託された人がもし死刑に反對すれば、死刑は行ふべきではありません。

理想を言へば、裁判も刑の執行も政府でなく、個人の意思を的確に反映できる民間企業なりボランティア團體なりが行ふべきです。結果として「共同體の秩序維持」も政府に任せるより遙かにうまく行くでせう。

>漠然と

これは木村さん、わざと言つてゐますね。しかし、さう云ふ惡意に據る判斷は行けません。なぜなら、もし最善の方法がとられたとしても、それでも問題が殘る、と云ふ論法でなければ、主張として説得力を缺くからです。(同上)

わけのわからない理由で自分を殺すかもしれない相手に對し、どうしてご親切にも「最善の方法」がとられた場合を想定してやらなければならないのですか。當然、最惡の事態を想定すべきです。お人好しではゐられません。「惡意」があるくらゐでちやうど良いのです。

即ち吝嗇等の價値判斷は「ない」と――さうなると木村さんの基準はまさに「最低限の道徳」になります。が、それは「刑法」の基準であるやうに思はれます。(2010/04/13 22:40

單に商道徳のあり方について討論してゐるのであれば、ケチはいかんとか禮儀正しくしろとか、さういふ高次元(?)の道徳を喜んで追加しませう。しかし現在我々は、財産沒收が認められる基準について議論してゐます。それは道徳の基準であると同時に、仰る通り、刑法の基準です。ならば當然、できる限り嚴格に定めるべきです。ケチなだけで財産を沒收されては堪りません。

道徳の場合には心理的な問題が採上げられねばなりません。しかし、刑法の問題ならば、純粹に客觀的な問題として話を單純化できるわけです。(同)

一つ前の文章で野嵜さんは私の基準を、最低限のものであつても、道徳と認めてくださいました。ならば、それ以上道徳の定義について云々する必要は無いはずです。「心理的な問題」がどうあらうと、私の提示した「暴力・脅迫・詐欺による蓄財は不當。それ以外は正當」といふ基準は道徳的であり、重ねて言ひますが、野嵜さんもそれを認めてくださつた。私の基準についての議論はここまでです。野嵜さんの基準は(「吝嗇」以外に)どのやうなものですか。

我々は、正義は相對的である、と云ふ事を思ひ出す必要があります。(同)

私はすでに野嵜さんの仰る「主觀的な正義」の存在を認めてゐます。したがつて現在の論點は、私が言ふ「客觀的な正義」の存在を野嵜さんがお認めになるかどうかです。

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