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教育バウチャーと選擇の不自由

民主黨は參院選のマニフェスト(政權公約)に、子供手當の一部として育兒や教育に使途を限定したバウチャー(金劵)での支給を盛り込む可能性が出てきた。教育バウチャーは、民主黨と反對に、教育現場への競爭原理導入に肯定的な論者にも以前から人氣のある政策だ。

たとへば「金融日記」の筆者、藤沢数希は、教育を市民の手に取り戻す方法として、教員免許廢止とともに教育バウチャー制度の導入を提案してゐる。*1 教職員免許廢止には私も大賛成だが、バウチャーの導入には賛同できない。資本主義の擁護者を自認する多くの論者が誤解してゐるが、バウチャーは市場原理と似て非なる制度で、教育の自由をむしろ損なつてしまふからだ。

(1)學校は競爭するか

教育バウチャーの支持者は、バウチャー導入で學校が生徒獲得を目指して互ひに競爭し、教育に市場原理が働くやうになるといふ。だが本當にさうなるだらうか。

民間企業が眞劍に競爭するのは、自分の商品・サービスが賣れなければ、いづれ倒産してしまふからだ。教育バウチャーを導入しても、學校につぶれる可能性がなければ、競爭は起こらない。

金融日記」の藤沢氏は「人気のない学校はつぶれる」*2と書いてゐる。本當にさうなら競爭は起こるだらう。だがそのためには、つぶれさうな學校を政府が絶對に救濟しないといふ保證がなければならない。

だが私立校ですらさうだが、とくに公立校の場合、政府がつぶれるに任すといふことはあり得ない。公立校がつぶれるといふことは、校長をはじめとする教職員が公務員としての職を失ひ路頭に迷ふことを意味するはずだが、そんなことを身内である政府が認めるはずがない。

藤沢氏は「公教育を大幅に自由化、民営化して」*3と書いてゐるが、それでは不十分だ。「大幅に」ではなく、完全に自由化、民營化しない限り、學校はつぶれず、市場原理は働かない。公立校を殘すならせめて純粹に地方自治體の税金だけで賄ふやうにして、補助金など國の關與を一切排除する必要がある。

政府が學校を救濟する可能性を殘したまま、學校經營の自由化に踏み切つた場合、たんに市場原理が働かないだけならまだいいが、もつと厄介な問題が生じるだらう。

たとへばもし私が校長なら、銀行から借金をしまくつて、ゼブラクイーンの姿を外壁いつぱいに描いた豪華な校舎が立ち竝ぶ學園を九州かどこかの山奧に建設する。ゼブラ學園で村おこしだ。私の趣味と思惑に反して生徒が三人くらゐしか集まらず、學校がつぶれさうになつたとしても、どうせ最後は政府が税金で救つてくれるのだし、銀行もそれを見越して融資してくれるはずだから、試さない手はない。

このやうに、學校に倒産の責任を負はせず、經營の自由だけを與へれば、いたづらにリスクの高い行動を促すことになる。經濟學用語でモラルハザードといふやつだ。これは教育現場を今以上に混亂させ、「それ見たことか」と教育自由化そのものへの非難を招く懸念すらある。

(2)選擇の自由は廣がるか

バウチャーを導入すれば子供は學區にとらはれず、授業料の心配もせず、學校を選べるやうになり、選擇の幅が廣がるとバウチャーの支持者は主張する。しかし實際には逆の結果となるだらう。

すでに述べたやうに、政府を教育から完全に切り離さない限り、學校間に眞の競爭原理は働かない。したがつて藤沢氏が期待するやうな、消費者ニーズに応じた教育サービスの供給は望めない。それ以外にも以下のやうな「選擇の不自由」が生じるだらう。

現在、私立校は宗教教育をはじめ、教育内容の自由が比較的廣く認められてゐる。だがバウチャー制度が導入されれば、教育内容に對する政府の發言力が強まるのは確實だ。バウチャーの對象としてどの學校を認め、どの學校を認めないかは、政府が決めるからだ。その時々の政治的イデオロギーを色濃く反映した、畫一的な教育方針が今以上に私立校まで及ぶ恐れが大きい。

また教育現場の悲劇の多くは、學校生活に順應できない子供やいぢめから逃れたい生徒を無理に通學させることが根本的な原因となつてゐる。しかしバウチャー制度の下では、さうした問題を解決する眞の選擇の自由は實現しない。たとへば學校に通はず親が家庭や公共施設で教へるホームスクールは、授業料を伴はないから、バウチャーの對象になり得ない。こうした教育方法を選ぶ親は、他人が使ふバウチャーの原資を税金として徴收されるばかりで、自分はバウチャーの恩恵を得られない。

じつは税金の問題は、もつと多くの市民に影響する。長くなるので續きは次囘。

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