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教育バウチャーと選擇の不自由(續々)

(4)左翼をつぶせるか

教育バウチャーを支持する自由主義者保守主義者は、バウチャー導入によつて教育から左翼勢力を一掃できると期待する。日本で言へば日本教職員組合日教組)が事實上の標的だらう。やり方によつてはある程度うまく行くかもしれない。だが裏目に出るリスクも同程度かそれ以上あると見なければならない。教育バウチャーは左翼思想と相容れないどころか、むしろ親和性すらあるからだ。

1990年に米國で初めてバウチャー制度が導入されたウィスコンシン州ミルウォーキーでは、自由・保守主義勢力だけでなく、左翼勢力も同制度を強く支持した。いや、むしろ最終的に指導權を握つたのは左翼勢力の方だつた。當初の法案は白人保守層の要望を取り入れ、適用對象にカトリック學校を含んでゐたが、裁判所がこれを違憲と判斷したため、宗教系學校を除くやう見直しを餘儀なくされる。新法案を起草したのは民主黨の州下院議員で、ポリー・ウィリアムズといふ極左の黒人女性政治家だつた。

ウィリアムズの法案は、バウチャーの支給對象から富裕層や中間層を除き、貧困層に絞るといふものだつた。これは事實上、黒人層への所得再分配を目的としたものだ。ウィリアムズは、バウチャー制度とは過去に白人が黒人に對して行つた差別の「償ひ」だと考へてゐた。バウチャーを使つて貧しい黒人の子供たちが私立校で教育を受けられるやうになれば「歴史やその他の授業を通じ、公立校が興味を示さなかつたアフリカ系米國人の遺産を滲透させられる」とその狙ひを語つてゐる。結局、新法案は可決され、米國初のバウチャー制度は自由・保守主義勢力の思惑といささか趣の異なるものとなつた。*1 *2 *3

日本に米國のやうな人種的對立はないが、バウチャーが政治權力を仲介役とする限り、何らかの形で左翼に利用される恐れは強い。事實、日教組を支持基盤とする民主黨にバウチャー導入を「期待するのは無理」と書いた「金融日記」の豫想*4に反し、民主黨は參院選のマニフェストにバウチャーを盛り込む動きを見せてゐる。バウチャーが日教組の思想と相容れないものなら、こんな動きはあり得ないだらう。

(5)次善の策か

教育の自由にとつて、究極の理想は政府の完全な排除かもしれないが、一氣にそこまで行くのは無理。一つのステップ、あるいは次善の策として教育バウチャーを評價してもよいのではないか――。かういふ意見もあるだらう。

車に喩へれば、東京から大阪を目指す途中、名古屋で一休みするのはたしかに「ステップ」と呼べるだらう。だがいきなり札幌を目指すのはどう考へてもをかしい。私には、これまで述べてきたやうな理由から、バウチャー制度は政府の關與をむしろ強めるもので、教育の自由にとつて「名古屋」ではなく「札幌」ではないか、あるいはせいぜい「新潟」あたりではないかと思へてならない。

車が正しいルートを進むかどうかは、運轉手次第、つまり制度を設計・運營する政權次第の部分が大きい。私自身、リバタリアン的な有力政黨が主導するバウチャー案であれば、支持してみたい氣持ちもないではない。だが今の日本でそんな可能性はないし、ミルウォーキーの例で見たやうに、自由主義勢力が推進者の一角を占める場合ですら、反對勢力が優勢となる可能性は排除できない。

國鐵(今のJR)民營化の際、私鐵にも乘れる「鐵道バウチャー」など導入されなかつたが、それでも民營化は實現した。もし導入されてゐたら、むしろ民營化は遲れたのではないか。自由化には「ステップ」が必要だといふ發想そのものを疑つてみるべきだらう。

だが最近の論者の中には、バウチャーを教育自由化への「ステップ」にすぎないと見るどころか、「金融日記」の藤沢氏のやうに、あたかも究極の理想のやうに語る*5人が少なくない。これは教育バウチャーを考案した經濟學者、ミルトン・フリードマンの眞意にまつたく反してゐる。

選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)

フリードマンは、教育の自由にとつて眞の理想が何であるかをしつかりと認識してゐた。著書『選択の自由』(西山千明譯、日経ビジネス人文庫、2002年)でかう述べてゐる。

われわれとしてはこの授業料クーポン(引用者註、教育バウチャーのこと)制度は、部分的な解決策でしかないと考へてゐる。その理由は、この制度は學校教育に對する財政問題それ自體や義務教育法それ自體に對してはどんな影響も與へないからだ。われわれ自身としては實際のところ、もつと徹底した解決策を推進したい。(370頁、原文は新字新かな)

フリードマンの言ふ「もつと徹底した解決策」とは、あまり過激になることを恐れてか、はつきりした言葉では書いてゐないが、義務教育の廢止だ。「われわれはいまでは、義務教育法がもたらす利益はそれがもたらす弊害を正當化するほど大きいとは信じないやうになつた。」(372頁)

フリードマンはこの點について詳しく論じることを避け、教育バウチャーの議論に立ち戻るのだが、バウチャーについて「現行の方法からはきはめて穩やかな形でしか離れたものでしかない」(373頁)とも明言してゐる。フリードマンにとつての理想はあくまでも教育からの政府の完全な排除であり、バウチャーなどではなかつたのだ。

フリードマンは現實主義の立場から、「ステップ」としてバウチャー制度を提言したのだらう。米國で同制度が初めて實現してから、政府の排除といふ最終目標に達しないまま二十年が經つが、どれくらゐの成果を上げたのか。これについて私は智識不足なので何も言へない。だがこれまで述べた理由、とりわけ税負擔の點から、バウチャーは現實主義的にも必ずしも得策ではないと感じてゐる。

少なくとも私は、フリードマンの理想を忘れ便宜的な「ステップ」だけに目を奪はれる愚は避けたいと思ふ。

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