リバタリアニズムは性善説か

リバタリアニズムに對するよくある批判の一つは「政府の權限を小さくせよといふ主張は、人間がすべて善人といふ思ひ込みを前提としてをり、非現實的」といふものだ。しかしこれはまつたく根據のない誤解だ。現實の世界では、全員が善人ではあり得ない。リバタリアンはこの現實を前提に理論を組み立てる。

もし人間がすべて善人なら、惡人を取り締まる政府はたしかに必要ない。では逆に、すべて惡人ならどうか。この場合も政府は必要ない。いやそれどころか、政府を存在させてはならない。なぜなら、もしすべての人間が惡人なら、當然、政府を運營する人間もすべて惡人で、權力を武器に、民間人ではとてもできないやうな惡行を働くはずだからだ。リバタリアニズムの批判者たちは「人間は善人ばかりではない。だから政府が必要」と言ふが、政府もまた人間の集團にすぎないことをすつかり忘れてゐる。

米國獨立戰爭の精神的指導者だつたリバタリアン、トマス・ペインは、人間はすべて原罪を負ふといふキリスト教思想を踏まへてかう述べてゐる。「堕落した人間の中に、すべてを支配する權力を信頼して與へ得るやうな者は誰もゐない」。政府が不要といふ考へは、何も「人間みな善人」といふおめでたい思想だけから生まれるわけではない。マキャヴェリ顏負けの徹底した性惡説に立つても導き得るのだ。

善人と惡人が入り交じつてゐる場合、政府は存在してもよいかもしれない。善人が權力を握り、惡人を取り締まつてくれる可能性があるからだ。だがその場合も問題が生じる。

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米國の經濟學者、フランク・ナイトはかう述べてゐる。「權力を保持したり、行使したりするのを好まない人が權力の地位に就く可能性は、この上なく優しい心の持ち主が、奴隸農場の鞭を振るふ監督者になる可能性と同程度である」。*1 人間とは權力を手に入れれば、誰しもそれを思ふ存分使ひたくなるものだ。それが惡人であればもちろん、市民は苦しむことになる。だが善人であつても、いや善人であるほど、政治の力で解決できない問題まで解決しようとして有害無益の介入を行ひ、かへつて市民を不幸にする恐れがある。だとしたら、いづれにしても政府の權限はできるだけ小さくしておくに越したことはない。

リバタリアニズムは極端な性善説に基づくユートピア思想ではない。惡人の存在を前提とし、また、善人も過ちを犯し得ることを想定した、現實的思想なのだ。

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*1:ハイエク隸屬への道』(西山千明譯、春秋社)197頁に引用。