リバタリアニズムは市場萬能主義か

リバタリアンは市場に任せればすべてがうまくゆくと思つてゐる」と批判されることがある。だが市場は人間の集まりであり、人間が神でない以上、過ちは避けられない。リバタリアンが説くのは、市場では過ちも起こるが、政府の犯す過ちに比べその惡影響ははるかに小さいといふことだ。

批判する人々は「市場に任せればすべてがうまくゆくわけではない」と述べた後で、「だから政府が介入すべきだ」と主張する。だが市場がうまく機能しない場合があるとしても、政府の介入を正當化する理由にはならない。市場で解決できないことは、たいてい政府の介入によつても解決できないし、むしろ事態が惡化することが多いからだ。

たとへば銀行の倒産で預金を失ふ預金者が氣の毒だといふ理由で、つぶれかけた銀行を政府が税金で救濟する。ところがこれによつて、銀行はリスクの高い事業に手を出す動機が強くなる。失敗して倒産しても預金者の面倒は政府が見てくれる一方で、成功すればまるまる自分のもうけになるからだ。その結果、銀行は過大なリスクを抱へるやうになり、倒産が増える。倒産の被害を小さくしようした政府の行動がかへつて倒産を増やすといふ皮肉な結果だ。

わざわざ税金を投じてこのやうに不本意な結果を招くより、政府は一切介入しない方がよい。救濟をやめれば、銀行がつぶれて預金者は預金を失つてしまふだらうが、その分、銀行經營に注意を拂ひ、過大なリスクをとつてゐる銀行には預金を預けなくなる。さうなればその銀行は商賣を續けられなくなる。不健全な銀行が完全になくなることはないだらうが、數は少なくなり、長期的に國民の利益になる。

もうひとつ例を舉げれば、多くの政府は勞働條件を改善するためと稱して、最低賃金制度を設けたり、解雇を規制したりする。ところがこれによつて企業は人を雇ふコストが高まるため、それまで人間がやつてゐた仕事を機械に置き換へて雇傭を絞るやうになり、その結果、失業が増える。また勞働者を解雇しにくくなると、能力のある人を新たに雇ふ餘地が小さくなるから、企業の競爭力は弱まり、勞働者に分配するパイそのものが減つてしまふ。政府の意圖に反し、勞働者のためを思つて始めた介入がむしろ勞働者を苦しめることになる。

勞働者を經濟的に豐かにしたいのなら、政府は勞働市場に介入せず、企業と勞働者の自由な契約に任せた方がよい。政府の定めた最低賃金の水準がいくら高くても、企業が雇つてくれなければ勞働者は一圓も稼げない。低い賃金だつたしても、その分、安いコストで企業は競爭力が高まり、結果的に勞働者に分配するパイは増えるだらう。

リバタリアンは、政府の介入が存在しない社會では全員が必ず幸福になるなどと述べてゐるわけではないから、市場萬能論者ではない。市場が政府より效率的に働くことを知つてゐるだけだ。リバタリアンの中には、司法や國防といつた治安維持の仕事は税で賄ひ、政府に任せた方が良いと考へる人々もゐる。だが明確な線引きなしに政府の役割を強調する人々は、政府の行動が人々に及ぼす影響に無智な「政府萬能論者」でしかないだらう。

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