私はやはり私のもの

ハーヴァード大の政治哲學教授、マイケル・サンデルの講義がNHK教育テレビで放送され話題になつてゐるが、講義に基づく本が出てゐたので買つて來た。『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍譯、早川書房)。サンデルと言へばリバタリアンに批判的なコミュニタリアン(共同體主義者)として知られる。そこでとりあへずリバタリアニズムを俎上に載せた第3章を讀んでみた。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

サンデルは、リバタリアニズムが主張する自己所有の概念に焦點を絞つて批評してゐる。自己所有とは、平たく言へば「私の生命・身體・財産は私のもの」といふことだ。*1 この章に「私は私のものか?」といふ副題がついてゐることからわかるやうに、サンデルは、自己所有の概念は一見否定できないやうだが、じつは怪しいと言ひたいのだ。

サンデルは「類まれなる講義の名手」(著者紹介より)にふさはしく、樣々な逸話や譬喩を織り交ぜながら、自己所有の概念に搖さぶりをかけようとする。だが結局、議論は空囘りに終はつてゐる。

腎臟を賣る(一風變はつた美術商の場合)

アメリカを含めほとんどの國では臟器賣買を禁止してゐるが、リバタリアンの自己所有論に從へば、人は自分の身體を好きなやうに賣る自由があるはずだ(實際、リバタリアンは臟器賣買の自由化を主張してゐる)。そこでサンデルは問ふ。それでは、あなたの腎臟の一つを買はうとする人が「一風變はつた美術商」*2で、病人の命を救ふためでなく、たんに「話の種になる卓上用の置き物として人間の臟器を金持ちの顧客に賣らうとしてゐる」だけだとしたら、それでもあなたは臟器賣買を許容するだらうか。

リバタリアンの立場からは當然「イエス」だ。もし臟器が私のもので、置物にされるのが不快なら、賣らなければよい。私の臟器は私のものだから、誰も私に「賣れ」と強制することはできない。同樣に、もし他人が自分の臟器を賣りたいと思ふのなら、たとへそれが置物にするためだらうと、誰も彼に「賣るな」と強制することはできない。

臟器を置物にして眺めるのは、たしかにあまり良い趣味とは言へない。サンデルはそんな「ふまじめ」な目的のための臟器賣買が許せないやうだ。だが一部の「ふまじめ」な利用がけしからんからといつて、さうした目的の賣買だけを探して禁止するのはカネと時間の無駄だし、ましてすべての臟器賣買を禁止する理由にはならない。女性用の下着は普通女性が着用するものだが、一部の男性が「ふまじめ」な目的のために買ふこともある。だからといつて女性用下着の賣買を禁止するのは馬鹿げてゐる。

腎臟を賣る(インドの貧しい農夫の場合)

あるインドの村の貧しい農夫が子供を大學に行かせる資金をつくるため、片方の腎臟を金持ちのアメリカ人に賣る。數年後、二番目の子供を大學に入れるため、もう一方の腎臟を賣らうとする。腎臟を二つとも失へば農夫は死ぬことになるが、賣る自由を農夫に認めるべきだらうか。

これも答へは「イエス」だ。私の身體は私のものだから、腎臟は二つとも農夫のもので、それらをどうするかは農夫の自由だ。たしかに二つ目の腎臟を賣れば農夫は死ぬ。だがそれは子供の幸せを願ひ、みづから決斷したことだ。他人が妨碍することはできない。もし子のために生命を犠牲にする親の行爲を他人が妨碍することが正しいのなら、荒海に投げ出された親が一人しか支へられない救命板を子に讓ることを妨碍するのも正しいと言はねばならない。
サンデル教授、ちょっと変ですよ――リバタリアンの書評集 2010-12〈政治・社会編〉 (自由叢書)
上記の二例もさうだが、サンデルリバタリアニズムや市場經濟を批判する喩へ話で、しばしば金持ちを反道徳的な惡役として登場させる。だが市場經濟の下ではどんな金持ちも相手が同意しないことは強制できない。一方、サンデルが「道徳に關與する政治」の擔ひ手として信頼を寄せる政府は、同意しない相手にも自分の價値觀を強制し、その結果、しばしば甚大な不幸をもたらす。賣買禁止のために臟器の供給が不足し、多數の人々が病に苦しみ、命を落としてゐるのは、その最もグロテスクな例の一つと言へる。

合意による食人(ローテンブルクの食人鬼)

2001年、ドイツのローテンブルクといふ村に住むアルミン・マイヴェスといふ男がちよつと珍しいインターネット廣告を出し、「殺され、食べられたいと願ふ者」を募集した。すると物好きの一人がやつて來て、みづから進んでマイヴェスに「殺され、食べられ」てしまつた。自己所有の原理に從へば、たんに相手の自殺を手助けし、本人が望む通り食べてやつたただけのマイヴェスを囑託殺人以上の罪に問ふことはできない。

サンデルはこの食人鬼の例を、死を望む末期患者の自殺に手を貸す行爲、つまり自殺幇助を支持するリバタリアンへの反論として提示してゐる。自分の命が自分のものならば、命を捨てるのも自由で、自殺に手を貸してくれる誰かと自發的に合意に至れば、國家がそれに干渉する權利はないとリバタリアンは主張する。だがその議論を延長すれば、合意による食人といふおぞましい行爲も禁止できなくなる。それでもよいのか、といふわけだ。サンデルはこの問題が自己所有の原理にとつて「究極の試煉を突きつける」と言ふ。

だがこれも答へは「イエス」だ。もし殺されることが本當に本人の意思なら、自分の命を捨てるのは自由だし、死ぬ目的も本人次第だ。食人鬼が自宅でおとなしく自殺者を待つだけでなく、そのうち自分から積極的に「食事」に出かけるやうにならないか心配ではあるが、それは自殺幇助の議論と關係がない。食人鬼の數などたかが知れてゐるが、自殺幇助の禁止で苦痛から逃れられない末期患者は多數ゐる。合意による食人がおぞましいからといつて自殺幇助そのものを禁じれば、末期患者は死を望むほどの苦しみから解放されず、自殺幇助を認める場合より弊害ははるかに大きい。

サンデルの「名講義」にもかかはらず、「私は私のもの」といふ自己所有の概念は搖るがない。*3


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*1:なぜ「自己」に「財産」が入るのかわからない人のために説明すると、財産は自分の身體(頭腦を含む)を働かせて得た成果物だからだ。また、自分で得た財産を自分のために自由に使へなければ、人間は生命・身體を維持できず、自己所有は有名無實になつてしまふ。

*2:原文は新字新かな。以下同。

*3:いま第1章の冒頭を少し讀んだが、サンデルはハリケーンに襲はれた土地で生活物資の便乘値上げが起こつたことや、それをリバタリアンが肯定してゐることに我慢ならないやうだ。ハリケーンと便乘値上げと言へば、偶然このブログで書いたばかりだが、サンデルはやはり「目に見えない協力關係」を理解できない人だ。