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リバタリアニズムQ&A)虚無主義か?

リバタリアニズムの目的は自由だと言ふが、自由とは何かを行ふための條件であつて、目的そのものにはなり得ない。リバタリアニズムは價値觀を持たない虚無主義ではないか。

リバタリアニズムは政治哲學の一種です。政治哲學には、コミュニタリアニズム(共同體主義)のやうに、政治が特定の價値觀を唱導すべきだと唱へるものもありますが、リバタリアニズムは、價値觀は個人によつて樣々であり、政治はそれに干渉すべきではないといふ立場をとります。唯一の例外は「他人の自由を不當に侵してはならない」といふ價値觀です。リバタリアンは、政治がそれ以上の價値觀を個人に押しつけるのは、分をわきまへぬ越權行爲だと考へるのです。

政治哲學でありながら政治の役割をせいぜい消極的にしか認めないところに、リバタリアニズムのユニークな點があると言へるでせう。

リバタリアニズムは生命・身體・財産の不可侵を強調するが、人間にはそれらを犠牲にしても守るべき價値があるはずだ。

リバタリアニズムは、人間が自分の生命・身體・財産を犠牲にしても守りたいと思ふ價値が存在することを否定しませんし、實際に犠牲にすることも否定しません。むしろそれは自由の行使として尊ぶべき行爲でせう。

しかし當然ながら、そこで犠牲にすべきなのはあくまでも自分の生命・身體・財産であつて、他人のものではありません。私が惡の軍團の前に仁王立ちになり「俺を殺してから行け!」と叫べば英雄として後世に名を殘すでせうが、「こいつを殺してから行け!」と隣の人を指さしたりしたら、多分別の意味でしか有名にならないでせう。

昔から世の中には、他人の金を使つて善行を施したがる者や、他人の命を犠牲にして英雄になりたがる者が少なくありません。リバタリアニズムは高尚な道徳について語らないから物足りないと感じる人も、かうした僞善を剔抉する際のリバタリアニズムの力には目を見張ることでせう。

リバタリアンは何かといふと規制緩和や民營化を叫ぶが、それらは所詮、政治の話。政治の力だけで人間は幸せにならない。

新聞や雜誌に「政治は何をすべきか」といつた特輯がよく載りますが、リバタリアニズムは「政治は何をすべきでないか」を説明する思想だと言へます。そしてその答へは「(ほとんど)何もすべきでない」です。したがつてあるべき經濟政策とは、政府が經濟活動から手を引くこと、具體的には規制の緩和・撤廢や民營化といふことになります。

もちろん人間は政治的な束縛から自由になつただけで幸福になれるわけではありません。しかしリバタリアニズムの守備範圍は幸福追求の條件としての自由を擁護するところまでで、そこから先の幸福追求の道標は、たとへば文學や宗教などに求めるべきでせう。リバタリアンがさうした事柄を語らないからといつて批判するのは、醫者に向かつて「人間をただ生かせばよいわけではない」と説教するやうなものです。もちろんリバタリアンには個人的に文學に造詣の深い人、信仰心の厚い人もゐるでせうけれども。

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