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國家は共同體か

共同體といふ言葉は人氣がある。心地よい連帶を想像させるからだらう。英語のcommunityもそれを譯した日本語の共同體も、今では地域社會といふ元の意味から轉じて、各種の政治的・社會的・文化的な結びつきにも譬喩的に使はれる。しかし譬喩は便利だが、似てゐる部分があるにすぎない。事實と譬喩を混同すると、本質を見失ふ。

さうした問題が特に生じがちなのは、國家を共同體と呼ぶ譬喩だらう。

どんな小國でも、地域社會より規模ははるかに大きい。地域社會で暮らす人の多くは親族や知り合ひだが、同じ國家に屬するだけの多數の人間にそんなつながりはない。要するに見も知らぬ他人どうしだ。地域社會からは離脱の自由があるから、メンバーの助け合ひは基本的に各自が納得する範圍内での自發的なものにとどまらざるを得ないが、國家では政府が所得の再分配で赤の他人どうしに「助け合ひ」を強制し、納得しない國民も、納税の義務から逃れることはできない。

國家を共同體と同一視する政治思想が支配する社會では、所得再分配のみならず、政府の行ふあらゆる政策に異を唱へにくくなる。政府の行爲は國家といふ共同體のメンバーが助け合ふためのものであり、それに反對するのは利己的で反道徳的な人間だとみなされるからだ。さうした政治思想のうち、最も極端なものがcommunism(共産主義)といふ名を持つのは偶然ではない。

國家を共同體と同質だと考へる誤りは、根が深い。國家の起源について、古代ギリシアの哲學者、アリストテレスはこのやうな説を唱へた。「個人が集まつて家族をつくり、家族が集まつて村落を形成し、村落が集まつて國家となつた」。現在でも多くの人は「家族→地域社會→國家」といふ一直線の發展を漠然と信じてゐる。

だがアリストテレスの説は、歴史的根據に乏しいことがわかつてゐる。それに代はる有力な學説の一つによると、國家は地縁や血縁のやうな自然發生的な關係からではなく、ある明確な目的を持つて誕生した。戰爭だ。ヨーロッパ史を遡ると、最初期の國家の構成員は、武裝集團の首領とその部下だつた。國家は家族や村落の延長として發展したのでなく、むしろそれらを暴力で脅かす集團として生まれたのだ。

時とともに國家の存在は擴大し、20世紀の福祉國家の時代を迎へると、傳統的な共同體を壓倒するやうになる。老人や病人、貧困者といつた弱者を助けるのは、權力によつて多額の税を徴收する國家の役割となり、それと裏腹に、それまで弱者を支へてきた家族や地域社會の力は著しく弱まつた。國家を共同體とみなす風潮が強まつた背景には、かうした政治的な流れがある。

共産主義は勢力をほとんど失つたが、現代の歐米では共同體主義(communitarianism=コミュニタリアニズム)と呼ばれる政治思想の有力な一派があり、日本でも信奉者がゐる。だが共同體主義者の主張を見てみると、彼らが指す共同體とは、じつのところ、國家だといふことがわかる。

共同体の探求―自由と秩序の行方

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これに對し、保守主義者として知られ、リバタリアンからも高く評價される社會學者、ロバート・ニスベットは「國家とは、家族、親族、地域共同體から直接、成長したものではない」と斷じ、かう警鐘を鳴らしてゐる。「國家と社會とは明確に區別されなければならない」。*1

眞の共同體を守りたいのであれば、僞りの共同體である國家がこれ以上肥大することを止めなければならない。


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*1:安江孝司他譯『共同體の探求』(梓出版社、1986年)108頁。