ダン・イン・ワンダーランド

「あなたの話、何言ってるのか、さっぱりわからないわ」と、アリスは言いました。(ルイス・キャロル不思議の国のアリス』、脇明子譯、岩波少年文庫、89頁)

企業經營の經驗があつても、經濟の仕組みを理解してゐるとは限らない。桁外れの讀書量を誇つても、正しい智識を身につけてゐるとは限らない。日々大量の文章を書いてゐても、論理的な思考ができるとは限らない。意外かもしれないが、いづれも眞實だ。有名ブロガーの小飼弾が最近「アゴラ」に寄稿した文章「資本主義の反対、社会主義の反対」を讀むと、それが嫌でもわかる。

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

小飼氏によると、むかしむかし、「純粋な資本主義」とやらの時代があつた。この世界では、事業に金(資本)を出した者、つまり資本家しか事業の成果を受け取ることはできない。腕の良い經營者を雇つても、金を出してゐない以上、拂ふべき報酬はゼロと言ふ。

しかしこれは非現實的な妄想だ。經營者が一錢の報酬も與へられず、ただ働きを強制された時代がいつどこであつたと言ふのか。そもそもそれでは雇はれてゐるとすら言へない。奴隸だ。奴隸が無報酬で事業を切り盛りする「純粋な資本主義」! 江戸時代の商家の番頭ですらそんな扱ひは受けてゐない。小飼氏の頭の中だけに存在する不思議の國の話としか思へない。

小飼氏によると、「純粋な資本主義」の下では雇はれ經營者の報酬はゼロになつてしまふから、經營者のなり手がゐなくなる。それでは困るので、資本家AとBは經營者Cを雇ふためにある契約を取り交はす。この説明に使はれる表現で、小飼氏の支離滅裂がまた明らかになる。

そこで渋々AさんとBさんはこういう契約を交わす。「Cに渡す分を『必要経費』として差し引き、残った分を差し出した種に応じて山分けする」。

「渋々」と小飼氏は書いてゐる。しかしなぜ「渋々」なのか。資本家AとBは、經營者Cが自分たちの事業を大きくしてくれると思ふからこそ、契約を交はすのだ。小飼氏の譬喩を借りれば、AとBだけでは1000粒の種を1萬粒にしか増やせないが、Cを雇へば10萬粒に増やせる。Cに報酬として半分の5萬粒を渡しても、AとBには5萬粒が殘る。自分たちだけで事業をやつた場合の5倍だ。大喜びで契約を交はすはずで、「渋々」などと表現するのはどう考へてもをかしい。

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小飼氏が不用意にも「渋々」といふ言葉を使つたのは、資本家を強慾で他人と助け合ふことが嫌ひな冷たい人間として描きたかつたからとしか考へられない。それは事業の成果の分配を「山分け」と山賊よろしく表現してゐることからもうかがへる。讀書家を自認する人とも思へない、なんとも紋切型の人間觀だ。

小飼氏はさらにとんでもないことを書く。「資本と經營の分離」の結果、雇はれ經營者として手腕を發揮し、經濟的に成功した人物の代表として、なんと孫正義、スティーヴ・ジョブズの二人を舉げてゐるのだ。

IT業界に縁もゆかりもない私が、業界人である小飼氏にこんなことを教へるのは恐縮なのだが、孫氏やジョブズ氏が大富豪になつたのは、ソフトバンクやアップルの經營者だからといふより、それらを含むさまざまな企業の大株主、つまり資本家だからだ。ジョブズ氏はアップルの經營者としての報酬は年1ドルしか貰つてゐないらしいではないか。

強慾な資本家だけが大きな顏をする「純粋な資本主義」では經濟は囘らない。サラリーマン經營者が活躍する「不純な資本主義」こそ社會を豐かにする。ベルリンの壁が崩潰したと言つても、勝利したのは資本主義そのものではない――。どうやらこれが小飼氏の言ひたいことらしい。だがすでに明らかなやうに、この主張は間違ひだ。

資本家、經營者、從業員らが自發的に協力し合つてゐる限り、それは資本主義だ。資本家が經營者を兼ねるか、それとも人に任せるかは、状況に應じて判斷することだ。一方が「純粋」で他方が「不純」などといふことはない。

小飼氏の暴論はさらに續き、政府の仕事は、きつくて儲からない仕事をやりたくない民間から「押しつけられ」たものだなどと書く。それならどうして大阪市の課長の平均年收が1000萬圓以上もあるのかとか、奈良市の清掃職員が年収1100萬圓も貰へるのかとか、さまざまな疑問がわくが、もうやめておかう。不思議の國の住人に理屈は通用しないからだ。

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