自由放任政策は機能する(1)ヴァン・ビューレン

1929年のニューヨーク市場での株價暴落後、當時のフーヴァー大統領が古典的な自由放任主義にとらはれ、財政出動など打つべき對策を打たなかつたために米國經濟は大不況に陷つた、といふのが現在の教科書的な解説だ。しかし歴史を振り返ると、不況から脱出するためには政府の介入を排し、自由放任主義に徹することこそ最善の道だといふことが明らかになる。別の機會に詳しく述べるが、一般に信じられてゐる見解と異なり、フーヴァーが自由放任と正反對の介入政策を推し進めたことこそ大恐慌の眞の原因なのだ。

公共工事などによる經濟對策が日常茶飯事になつた現代では、「自由放任主義こそ不況から脱する最善の策」などと言ふと暴論にしか聞こえないだらう。しかしそれは大恐慌をきつかけにケインズ流の景氣對策が先進諸國で廣がり、すつかり當たり前になつてしまつたからにすぎない。以下に示す例が示すやうに、かつてでは不況に對して政府が介入を控へるのが一般的であり、實際に效果をもたらしてもきた。

【ヴァン・ビューレン】

第一の例は、米國獨立から半世紀後、1837年に起こつた不況だ。大恐慌以前で最も深刻な不況だつたとされる。だが當時のマーティン・ヴァン・ビューレン大統領は民間の經濟活動に介入しない姿勢に徹した。

ヴァン・ビューレンといふ名前を聞いたことのある日本人は果たしてどれだけいるだらうか。本國でも決して有名な大統領ではない。しかし彼は建國の父の一人、トマス・ジェファーソンによる「統治することの最も少ない政府こそ最良の政府」といふ金言を強く信奉し、米國史上、最も徹底した自由主義政治家の一人とされる。

ヴァン・ビューレンが大統領に就任した頃、米國は大規模な銀行倒産の波に襲はれてゐた。議會からは景氣對策を求める聲が高まつたが、ヴァン・ビューレンはかう警告した。「どの地域も政府を頼りにしすぎる」「わが國は政府の權力と義務が嚴しく制限されてゐるが、それでも國民は政府をあてにしがちだ。とりわけ混亂と苦難が突然襲つてきた時にはさうだ」。しかしこの誘惑に從ふことは過ちである。なぜなら「これまで政府が國内外の經濟活動を管理しようとしたすべての試み」は、彼の意見によれば「有害であると判明した」からだ。必要なのは「補助金や法規制の助けを借りない、民間の利益や企業、競爭に基づいた制度」だ。ヴァン・ビューレンは不振企業の救濟や商業への介入といつた對策の實施を拒否した。「(景氣對策は)救はねばならない人々にとつて、長い目で見て眞の幸福につながらない」からだ。

ヴァン・ビューレンは州政府の甘い判斷が招いた財政危機にも嚴しい態度で臨んだ。不況に先立つバブル景氣の頃、各地の州政府は多額の公債を發行して海外投資家から資金を借り、採算のとれさうもない公共事業につぎ込んでゐたが、景氣の惡化で資金繰りが一氣に苦しくなつた。1847年までに四州(ミシシッピアーカンソー、ミシガン、フロリダ)が負債の一部または全部の支拂ひ不能に追ひ込まれてゐる。民主黨に對立するホイッグ黨のヘンリー・クレイ、ダニエル・ウェブスターらは聯邦政府による救濟を要求したが、ヴァン・ビューレンはこれを拒否した。血税を投じた景氣對策に乘り出すのではなく、むしろ無駄な出費を切りつめた。大統領の任期中、聯邦政府の總支出を3090億ドル(1836年)から2430億ドル(1840年)まで減らしてゐる。率にして21パーセントの減少だ。さらにヴァン・ビューレンは自由貿易を促すため關税を引き下げ、金融の規制を緩和するなど自由放任の政策を貫いた。

結果は目覺ましかつた。經濟史家ピーター・テミンによると、恐慌の翌年、1838年から景氣は早くも上向いた。しかも實質消費は1839年から1843年までに21パーセント増え、實質國民總生産(GNP)は16パーセント増加するといふ力強い恢復だつたのである。政府によつて物の價格や賃金が人爲的につり上げられた大恐慌時と異なり、物價が柔軟に下落したため、生産活動や生活水準への惡影響がなかつたのだらうとテミンは示唆してゐる。

(初出:Libertarianism Japan Project

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