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自由放任政策は機能する(3)ハーディング

【ハーディング】

第一次大戰終了後まもない1920年から1921年にかけ、米國は戰時景氣の反動で不況に見舞われた。當時の大統領は「常態への復歸」を訴へて就任した共和黨のウォレン・ハーディングだ。ハーディングといへば、米國で實施される各種の「偉大な大統領」ランキングで常にワースト一位を爭ふほど、一般には人氣がない。政權下で汚職事件が多發したことに加へ、ジャーナリズムを通じ、愛想はいいが無智で凡庸な人物といふイメージが流布したためのやうだ。

大恐慌前後の世相を描いた『オンリー・イエスタデイ』の著者、フレデリック・ルイス・アレンは、ハーディングを「彼の頭は明晰でなくぼんやりしてゐた」「問題の本質的な要素を自分で發見し、判斷をくだす能力がない」などとこき下ろしてゐる。だが實際には、地方新聞社の經營者からたたき上げたハーディングは政府の介入が經濟活動に有害であることを知つてゐた。「ビジネスには小さな政府を」。これが大統領選のスローガンだつた。

1921年の就任當時、米國は大戰に伴ふにわか景氣の反動で嚴しい不況に襲はれてゐた。だがハーディングは公共事業に税金をつぎ込むやうなことはせず、銀行家出身の財務長官アンドリュー・メロンの助言を容れ、戰時中に膨らんだ財政の縮小に踏み切る。所得税最高税率を1921年の73パーセントから1922年に58パーセントまで引き下げる一方、政府支出をウィルソン前政權の平時の水準から40パーセント削減した。まさに「小さな政府」を地で行く政策だ。

ハーディングは勞働市場への介入にも反對した。大統領と異なり介入政策に熱心だつた商務長官ハーバート・フーヴァー(後の大統領)は賃金の維持や雇傭を増やすためのワークシェアリングを實現しようと經營者らの説得に乘り出したが、ハーディングは冷淡だつた。「インフレの後には不況が來る。潮の滿ち引きと同じだ」と語り、救濟政策は地方の責任だと強調した。

ハーディングはヴァン・ビューレンやクリーヴランドと同じく、國民が政府に安易に頼ることを嫌つた。1922年、聯邦議會は財源の手當てがないまま、退役軍人に特別支給金を支拂ふ法案を可決した。これに對しハーディングは同年9月19日、在郷軍人會の激しいロビー活動にもかかはらず、拒否權を發動する。折しも六週間後に聯邦議員選舉を控へ、普通なら大統領は有權者の人氣を取り結んでやるところだ。だがハーディングは、納税者に一億千萬ドルの負擔を強ひるのは不公正だと語つた。

ハーディングの自由放任政策は、これまで見てきた過去の例同樣、效果を發揮した。1920年に始まつた不況は1921年7月には完全に終結した。賃金を政府の力で無理に押し上げるやうなことをせず、自然に下落するに任せた結果、雇傭は増加した。1921年に11.7パーセントに達してゐた失業率はわづか一年半で6.7パーセントまで低下する。當時のあるエコノミストは後にこれを「米國最後の自然恢復による完全雇傭」と呼んだ。

1929年に始まる大恐慌以前、米國の政治家の多くは自由放任こそ不況に對する最善の處方箋であり、政府の「景氣對策」は逆の結果を招くことを知つてゐた。米國に限らず、世界はその失はれた智慧を思ひ出すべき時に來てゐる。<參考文獻>
http://www.lewrockwell.com/orig4/powell-jim4.html
http://mises.org/daily/2753

(初出:Libertarianism Japan Project

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