金錢蔑視といふ僞善の告發――ジョージ秋山『銭ゲバ』

少年時代、極貧のため母に死なれた蒲郡風太郎(がまごほり・ふうたらう)は金錢に強い執着を抱く。長ずるにつれ手段を選ばぬやり口で巨額の富を蓄へ、金の力で政界進出まで果たすが、悲劇的な最期を迎へる。

ジョージ秋山のマンガ『銭ゲバ』(幻冬舎文庫、全2卷)の中身を一言で言ふとかうなる。これだけだと、以前NHKで放送されたドラマ『ハゲタカ』のやうな、よくある見當外れな反資本主義のアジテーションにしか見えないかもしれない。だがさうではない。ぜひ一讀を勸めたい傑作だ。

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

この物語は一見、自由な市場經濟を糺彈してゐるやうだが、讀むにつれ、さうでないことがわかる。たとへば、主人公の「銭ゲバ」こと風太郎が金を手に入れた手段を列舉してみる。

  • タクシーに客が置き忘れた金を盜む。親しい青年から見咎められ、殺す。
  • 銀行から社員全員の給與を運ぶ途中、それを盜む。共犯者を崖から突き落とし、殺す。
  • 放火で社長を殺害し、自分が新社長となる。

「盜む」「殺す」。どちらも明白な犯罪だ。資本主義とは、他人が望む商品やサービスを提供し、その見返りに金錢を受け取る仕組みであり、暴力や詐欺で相手の財産を一方的に奪ふ犯罪とはまつたく異なる。もし竊盜や殺人を資本主義の害惡として描いてゐるとしたら、大きな勘違ひと言はねばならない。

だが作者のジョージ秋山がさうした勘違ひに基づいて資本主義を指彈してゐるのでないことは、讀み進むにつれ明らかになる。たとへば資本主義打倒を唱へる學生運動家たちを冷ややかに描き、彼らへの批判を登場人物にかう語らせてゐる。「資本主義の国だから住みごこちがわるいのじゃなくてだよ。おとなの国だからわるいんだよ。きみたち子どもにとって…」(下卷10頁)

また風太郎の母が死んだのは、貧しくて高額の醫療費を拂ふことができなかつたからだが、醫療費が高いのは、政府が醫師や大手醫藥會社などと結託し、安全性確保や醫療費抑制を名目に醫療の自由化を規制してゐるからだ。自由競爭の下では需要に應じて商品やサービスの値段が下がり、裕福でない庶民を助ける。風太郎の母を殺したのは「市場原理主義」ではなく、市場を縛る政府とそれに結びついた利害關係者なのだ。

このやうに『銭ゲバ』は、資本主義を非難するどころか、作者が意識したかどうかは別として、むしろ自由社會の敵である規制や犯罪を糺彈するリバタリアン的な寓話だとすら言へる。しかしこの物語が訴へる主題はそれよりもさらに深い。

作者がもつとも言ひたかつたこと、それは風太郎が吐き捨てるやうに語つた次の言葉に集約されてゐる。

銭ゲバはわたしだけじゃないズラ。どいつもこいつもきれいなことをぬかしているが、みんな銭ゲバズラ!!(上卷417-418頁)

人々は金錢に執着する風太郎を銭ゲバと嘲る。だがそれは連中も同じでないか。風太郎が路上に一萬圓札をばらまくと、通行人は先を爭つて拾ひ、自分のものにしようとする。風太郎は盜みや殺しによつて金錢を手に入れたのだから、人間として蔑まれても仕方がない。風太郎自身もそれを自覺してゐる。しかし道に落ちた金をネコババするのは、もちろん殺人に比べれば取るに足らない犯罪とはいへ、強慾の不當な發露といふ點では變りない。少なくとも彼らに風太郎めがけて我先に石を投げる資格はないだらう。

例外はあるかもしれないが、人間は慾深い。だからこそ宗教では古くから強慾を戒めてきた。しかし人々は自分が強慾だといふことを認めたがらない。紋切型のあくどい資本家を惡役に据ゑたテレビドラマや映畫に喝采を送り、またさうした視聽者や讀者に迎合した作品を經濟的自由の價値に無智な作家がでつち上げる。だがそのやうな作品が人間の眞實に迫ることは決してない。強慾が誰の心にも潛むといふ事實から目を逸らせるからだ。

私は人間から強慾を消し去れなどと主張してゐるのではない。そんなことはできはしない。むしろ強慾を否定せず、殺しや盜みを行はないといふルールの下で各人が自分の利益を自由に追求することこそ、人間が互ひに幸福になる最善の方法だと理解してゐる。問題は、さうした道理に無智な人々が「強慾は罪」といふ正義を振りかざし、政治の力を借りて、他人が合法的に利益を追求することを妨碍しようとすることだ。

金錢をほしがる點では、政治家も一般市民に負けてゐない。彼らは高級料亭で牀の間を背に坐りながら、自らの權力を維持するために、風太郎に金をせびる。『銭ゲバ』に登場する政治家たちは、一目でワルだとわかるし、自分が強慾だと自覺してゐるので讀んで腹は立たないが、現實の政治家はさうではない。ある者は社會的弱者の苦境に表情を曇らせながら、またある者は憂國の情に訴へながら、内心考へることに變はりはない。税(國債發行による將來世代への課税を含む)といふ名目で他人の財産をより多く卷き上げることだ。彼らはそれによつて自らの評價を高め、支持者に利益をもたらし、再選されることを目指してゐるのだが、なぜか資本家に比べ強慾と非難されることは少ない。

さらに厄介なのは、支配慾や名譽心といつた、金錢を直接對象としない強慾だ。風太郎の小學生時代、遲刻をした生徒は一囘につき五圓の罰金を「規律の箱」に入れるやう、擔任の女性教師が命じる。家に金がないので拂へないと風太郎が言ふと、教師は詰問する。「きみはみんなできめたことをどうして守らないんですか!?」。多數決といふ手續きさへ踏めば個人の財産を合法的に奪へる民主主義の縮圖のやうなエピソードだが、この教師は自分が支配慾や歪んだ道徳心を滿足させたいといふ慾望に驅られてゐることをまつたく自覺してゐない。

かうした歪んだ道徳心を抱いた人間が權力を握るほど怖いことはないだらう。實例は歴史上いくつかある。『銭ゲバ』との關聯でぜひ觸れておきたいのは、この作品が「週刊少年サンデー」に連載されたのと同じ1970年代、カンボジアで起こつたポル・ポト革命だ。フランス留學中に共産主義者となつたポル・ポトは政權を握ると、社會主義經濟體制確立のほか、宗教の彈壓、教育の否定、傳統・外國文化の抑壓などに乘り出したが、その中で特筆すべきは、通貨を禁止したことだ。通貨があるから私慾物慾が起こると愚かにも信じたのだ(山田寛『ポル・ポト<革命>史』、講談社選書メチエ、96頁)。ポル・ポト時代、カンボジアでは全國民の四分の一にあたる百五十萬人もが死に追ひやられたが、肅清や強制勞働のほか、通貨の禁止で物々交換しかできなくなり經濟生活が崩潰したことも影響したとみられる。ポル・ポト政權には農業や農民の實情を知らない元教師が多かつたといふ。

ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間 (講談社選書メチエ 305)

ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間 (講談社選書メチエ 305)

金錢を蔑んでみせる文化人などがよくゐるが、通貨がなければ文明の發展はもちろん、最低限の文化的生活すらありえない。『銭ゲバ』のラスト近くで風太郎が、愛してゐたのにある理由から殺してしまつた女性と、その間に生まれ、やはり殺してしまつた子供と三人で、平凡な庶民としてつつましやかな生活を送る自分を想像する場面がある。この幸福な光景を微笑ましく感じない讀者はゐないだらうが、風太郎が夢想するささやかな晩餐の食材も、家族とピクニックに出かけるための小さなマイカーも、通貨を通じた間接交換によつて成立する複雜な生産過程なしに庶民が手に入れることはできないのだ。

「どいつもこいつもきれいなことをぬかしている」といふ風太郎の告發は、金錢や資本主義を都合よく惡玉に仕立て上げ、自らの内なる強慾に目を塞ぎつつ、他人の經濟的自由に干渉する僞善こそ対象とされねばならない。