冒險家精神の抹殺に抗へ――映畫『マン・オン・ワイヤー』

1974年8月7日朝、ニューヨーク世界貿易センターの前を通りかかつた人々は、その場に立ちすくんだ。二つの超高層ビルの頂上の間に張られた一本の綱の上を、命綱もなしに、一人の男が歩いてゐたからだ。

男の名はフィリップ・プティ。フランスの大道藝人だ。1971年にはパリのノートルダム寺院に綱を張つて渡つて見せ、話題をさらつてゐる。無斷なので違法として逮捕されるが、誰を傷つけたわけでもない。人々はプティのパフォーマンスに喝采を送つた。そのプティが新たな挑戰の對象としたのが、當時世界最高のビル、世界貿易センターのツインタワーだつた。

マン・オン・ワイヤー』(ジェームズ・マーシュ監督、2008年)は、この壯大な企てを追つたドキュメンタリー映畫だ。プティをはじめとする關係者へのインタビューのほか、準備の樣子などを收めた過去の映像や冩眞を織り交ぜ、實行までの手に汗握る舞臺裏を描いてゐる。アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー賞を受賞するなど世界的に高い評價を受けた。

最上階地上四百十一メートルもの高さにそびえ立つツインタワー。その間は約六十メートル離れてをり、どうやつて綱を渡してよいかもわからない。そもそもビルへの立ち入りは嚴重に監視されてをり、機材を運び込むことすら困難だし、しかもそれらを屋上まで運ばなければならない。まづ無理だと諦めるのが普通だらう。實際、プティは計劃を立てる際「どう考えても不可能だ」と思つたと言ふ。だがその後が常人とは違ふ。「どう考えても不可能だ。よし、やろう」

プティは仲間たちの力を借りながら、難關を一つづつ突破してゆく。そしてつひに、人々が息を呑み見守る中で、まるで雲の上を歩くやうに、超高層ビルの間の綱を悠々と渡る。轉落死と背中合はせでありながら、綱にわざわざ片膝をつき、微笑みながら一禮して見せるプティの姿は「詩人として舞台の上で美を極める」といふ彼の理想を體現して見事だ。

皮肉なことにこの成功をきつかけに、一躍英雄となつたプティは仲間たちと疎遠になつてしまつたらしい。幼なじみでもある仲間の一人が「僕らはすごいことをやり遂げた。その事実だけは消せない」と語り、失はれた友情と遠い青春に思ひを馳せつつ、感極まつて涙する場面は胸に迫る。

さて、プティはこれで冒險をやめたわけではない。翌1975年、アンリ・ルシャタンといふ別の藝人とともに、ナイアガラの瀧を綱で渡るといふ計劃を立てた。ところがこの時は勝手が違つた。その顛末についてカナダのリバタリアン經濟學者、ピエール・ルミューが著書『無政府国家への道』(渡部茂譯、春秋社、1990年)で次のやうに記述してゐる。

二人の冒険者は、ナイヤガラ川のカナダ側とアメリカ側からこの滝を囲んでいる二つの公園のそれぞれの役所に出頭した。この二つの役所から出された数多くの注文のほかに、プチ[プティ]とルシャタンはこの川に対してそれぞれ一定の権限を有するニューヨーク州とアメリカ軍工芸部隊の許可、さらには沿岸警備隊の許可をも得なければならないことを知った。そのうえ、かれらのロープとそれを支える土台は連邦運輸省の建築規則、並びにニューヨーク州の一定の技術規則を遵守しなければならない。土台は州の土地のうえに築かれるので、アメリカの公権力はそれが周囲の環境に与える影響力についての調査をも要求する。ロープは滝の真中でカナダの領土に入るので、同じように、オンタリオ州政府とカナダ連邦政府のあらゆる許可を得なければならない。二つのカナダーアメリカ国際委員会にも諮られねばならない。最後に、カナダ移民局の申し渡しによれば、二人の綱渡り芸人は、かれらの綱を踏み外したらただちに逮捕されるという条件で、カナダへの入国ビザを手に入れなければならない。(7ー8頁)

讀むだけでうんざりする煩瑣な官僚的手續きだが、結局どうなつたか。

二年後、ニューヨーク州の公園管理局は、この計画の管理上の複雑さに頭を悩ませて、計画の禁止を決定した。もはや、ナイヤガラを一本の綱の上で渡るものはいないだろう。州がそれを禁止しているからである。(8頁)

無斷で忍び込んだ世界貿易センターの時と違ひ、ナイアガラ横斷に際し、プティは米加の行政當局に正面から許可を求めた。だがそこに待ち受けてゐたのは、警戒嚴重な超高層ビルよりも手ごわい規制の迷路で、冒險は斷念を餘儀なくされた。さぞ無念だつたらう。じつはナイアガラでの綱渡りは、プティらに先立つこと百年餘り前の1859年、フランスの輕業師シャルル・ブロンダンが見事にやつてのけてゐる。ブロンダンは一再ならず、目隱しをしたり、手押し車を押したり、人をおぶつたりと趣向を變へて、觀衆の喝采を浴びながら、綱渡りを何度も繰り返したといふ。プティらはブロンダンの偉業を再現しようとしたのだが、十九世紀に何度も可能だつた冒險は、二十世紀には茨のやうに絡み合つた無數の法令に沮まれて、始めることすら不可能になつてゐた。

無政府国家への道―自由主義から無政府資本主義へ

無政府国家への道―自由主義から無政府資本主義へ

百年間で何が變はつてしまつたのか。ルミューはかう指摘してゐる。「右派も左派も、現代の政治思想は国家管理主義的である。秩序や社会正義を確保するために、至るところで国家の干渉が求められてゐる」。平たく言へば、政府が何かと理由をつけて、市民生活に介入してくるやうになつた。そのための道具が法律だ。だから國家管理主義が支配する社會では、法律の數がやたらと増える。ルミューが引用してゐる著述家の言葉を借りれば「現代では毎日のように法が増えるという奇跡が見られる」。現代の私たちは國會で法律が毎年何十本も成立するのを當然だと思つてゐるが、政府が「法製造機」としてフル稼働する現状は、歴史的に見れば異例な事態なのだ。

「それがどうした」と思ふ讀者がゐるかもしれない。冒險なんぞ、所詮は子供ぢみた物好きのやること。できないからといつて騒ぐほどのことはない、と考へるかもしれない。しかしさうした子供ぢみた冒險心こそが、文明を切り拓いてきたことを忘れてはならない。

ルミューは國家によつて頓挫させれられた冒險のもう一つの例として、グライダーによる大西洋横斷の話を紹介してゐる。1980年、先驅者であるチャールズ・リンドバーグの「セントルイス精神号」にあやかり「カリフォルニア精神号」と名づけた愛機に乘つて、アメリカの青年がカナダからフランスまで飛ばうと計劃した。ところがカナダ運輸省は航空安全規則を滿たしてゐないことを理由に、飛行を許可しない。青年は「これはわたしの冒険であり、その代価を支払う覚悟はできている」と反駁し、カナダ政府當局のあらゆる責任を免除する權利抛棄書に署名することさへ申し出たが、同政府はこれを拒絶し、グライダーを陸路でアメリカまで送り返すやう強制した。

周知のやうに、空を飛ぶといふ人類の夢は一握りの發明家・冒險家の努力によつて現實のものとなつた。ジョージ・ケイリークレマン・アデールライト兄弟らは子供ぢみた醉狂な人物と思はれてゐたし、オットー・リリエンタールのやうに墜落して命を落とした者もある。しかしもし政府が彼らの冒險を沮止してゐたら、私たち一般市民がわづかな時間で國内各地はもちろん、世界各國すら訪ねることができるといふ驚くべき利便を享受することはなかつただらう。ついでに言へば、日本國中至る所に空港ができて土建業者や政治家を潤すこともなく、運輸關係の官廳が天下りを含め今ほど多くの役人を養ふこともなかつただらう。

航空に限らない。およそ文明とは冒險家、發明家、起業家といつた醉狂な天才たちが活躍できなければ發展しえない。ルミューは「国家は冒険の敵」と書いてゐるが、冒險の敵は文明の敵でもある。いやそれ以前に、他人を傷つけない限り、それがどんなに愚かに見えようとも、人間には自分のやりたい事をやる權利がある。冒險家精神を抹殺しようとする國家には抵抗しなければならない。

政府やその代辯者を務める智識人はお爲ごかしに言ふことだらう。「一体何のために、ナイヤガラの滝を一本の綱で渡ろうとするのか。より高い橋があるというのに」。プティとともにかう答へようではないか。「理由がないからすばらしい」と。

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