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『アメリカの大恐慌』を讀む(5)マネー減少を伴ふ信用収縮

マネー減少を伴ふ信用收縮(Secondary Features of Depression: Deflationary Credit Contraction)

見出しにあるdeflationaryを「マネー減少を伴ふ」と譯してゐることに首を傾げる讀者がゐるかもしれない。これは原著中、ロスバードがdeflationといふ語を現在一般的な「物價の下落」といふ意味でなく、英語本來の「貨幣量の収縮」といふ意味で使用してゐるためだ。inflationは本來「膨脹」であり、經濟學の世界でもかつては「物價の上昇」でなく「貨幣量の膨脹(増大)」といふ意味で使はれてゐた。同樣にdeflationは「貨幣量の收縮(減少)」であり「物價の下落」ではなかつた。このやうにinflation/deflationを原義と異なる意味に使ふことにロスバードの師、ミーゼスは反對し、傳統的な用法を固持した。貨幣量の膨脹・收縮を端的に指す言葉がなくなり、金融政策に對する批判に不都合と考へたためだ。ロスバードもミーゼス同樣の信念から傳統的用法に從つてゐる。

America's Great Depression

America's Great Depression

さて、「ヒト」「モノ」が市場の需要に從つて適切な分野に再配置されることに加へ、不況期には「カネ」の面でも著しい變化が生じる。(1)貨幣供給の減少(2)貨幣需要の増大(3)物價全般の下落――などだ。

人爲的な好況は、政府が市場に新しい貨幣を注入することによつて生み出されるから、貨幣の供給がストップすると不況に轉じる。つまり不況は貨幣量が横ばいになつただけでも起こる。しかし實際には、不況期にはほとんど常に貨幣量が減少する。これは貨幣の大部分が銀行による貸し出し(銀行信用)だからだ。借り手企業の經營状態が惡化し、倒産が増えると、銀行は融資に愼重になり、貸し出しを減らす。これは企業としての銀行の經營判斷によるもので、政府・中央銀行が「貸し澁り」「貸し剥がし」を止めようと躍起になつても食ひ止めることは難しい。

貨幣需要の増大は、物よりおカネをほしがる企業や人が増えることで、「流動性への逃避」(scramble for liquidity)とも呼ばれるが、いくつかの要因による。

  1. 不況で物價下落の見通しが廣がり、それまで消費を手控へおカネを手元に置かうとする人が増える
  2. 銀行などに借金返濟を迫られ、資産を賣つておカネに換へる企業が増える
  3. 赤字や倒産が増え、企業が投資に愼重になる

貨幣の供給が減る一方で、貨幣への需要が増えるから、貨幣の價値は高まる。たとへばこれまで二千圓出さないと買へなかつた物が千圓で買へるやうになる。つまり物の値段が下がる。特定の物だけでなく、物全般の値段が下がる。これが(deflation=貨幣量收縮といふ本來の意味とは違ふが)一般的に「デフレ」と呼ばれる現象だ。

デフレは甚だ評判が惡い。デフレが續く今の日本ではあたかも諸惡の根元のやうに非難され、癌細胞のやうに怖れられてゐる。倒産や一時的失業は不況を克服するのに必要な過程だと理解してゐるエコノミストですら、デフレだけは不況を無用に惡化させるとして、金融緩和でデフレを和らげよと主張したりする。だがさうした見方は間違ひだとロスバードは指摘する。「これらの過程(=物價下落)は不況を惡化させるどころか、積極的な利益をもたらす效果がある」

物の價格、とりわけ生産活動に使はれる資本財の價格が速く下がれば下がるほど、それらは買ひやすくなり、市場の需要に応じた用途に使はれやすくなる。さうなれば價格が一段と下がるといふ豫想もぬぐひ去ることができる。

物價が下がると企業經營に不利に働くといふ説があり、一般人だけでなく專門家にすら信じられてゐるが、これは事實に反する神話にすぎないとロスバードは言ふ。經營にとつて重要なのは物價全般が上がるか下がるかではなく、賣値とコストの差だ。たとへ賣る商品の値段が下がつても、それより速く從業員の賃金などのコストが下がれば、企業活動も雇傭も活溌になる。

ロスバードは不況克服を名目とした消費促進政策にも異を唱へる。今の日本でもさうだが、不況になると政府が鐘や太鼓を打ち鳴らして國民に消費を呼びかけ、地域振興劵だの定額給附金だのを配らうとする。そして必ず、金劵なら期限内に使はないと損なのでほぼ確實に消費を刺戟するからよいが、給附金や減税は貯蓄に囘るだけだからダメだといつた議論が交はされる。普段は勤勉や儉約といつた日本人の傳統的道徳を強調する保守系政治家も、手のひらを返したやうに消費萬歳の大合唱に加はる。

しかしロスバードに言はせれば、これは適切な處方箋と正反對の、とんでもない愚策だ。政府の金融緩和に惑はされて「人々は消費より貯蓄を好むやうになつた(=時間選好が弱まつた)」と勘違ひした企業家が無駄な投資を増やして行き詰まり、經濟が本來の時間選好を反映した状態に戻る調整過程、これが不況だ。誤つた投資(malinvestment)が本來の時間選好からかけ離れた水準に積み上がれば積み上がるほど、調整(不況)は嚴しいものとなり時間がかかる。しかしもし人々の時間選好が本當に弱まれば、調整は小幅で濟む。つまり消費を切り詰め、貯蓄を増やさうとする人々の邪魔をしないこと、これが正しい「不況對策」なのだ。

しかし本當にデフレに害はないのだらうか。信用收縮が行き過ぎて、正常に戻る調整の域を超え、必要以上の貨幣量減少を招く心配はないのだらうか。ロスバードは信用收縮に「行き過ぎ」の可能性を認めたうへで、しかし害はないと論じる。信用收縮が勢ひ餘つて、市場で本來決まる水準以上に金利が上昇し、投資が減少するかもしれない。だが信用收縮は信用膨脹と違ひ、誤つた投資を誘發する恐れがない。したがつて反動で不況になる心配がない。もう一つ言へば、信用膨脹は青天井で上限はないが、信用收縮はそれに先立つ信用膨脹がしぼむ過程なので、無限に續く懸念はない。

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