私の戰爭觀

なんだか偉さうな題名だが、一度書いておかないと前に進めないので、書いておきたい。

私はかつて戰爭を積極的に肯定してゐた。人間にはそれぞれ生命にかけても守りたいと信じるものがあり、それを守るためには、時には暴力の行使も止むを得ない、いやそれどころか、暴力を積極的に行使すべきだと考へてゐた。「生命にかけても守りたいと信じるもの」とは、たとへば家族であり、抑壓からの自由であらう。

今でもこの考へは基本的に變はつてゐない。私はここ數年リバタリアニズム自由主義)が自分の戰爭觀にもたらした變化について記したいと思ふが、リバタリアニズムは個人が家族や自由を守るために暴力を行使して戰ふことを否定してゐない。トルストイ流の絶對平和主義ではないからだ。私もリバタリアンになつたことによつて絶對平和主義を信奉するやうになつたわけではない。にもかかからず、リバタリアニズムは私の戰爭觀に大きな轉換をもたらした。

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

まづ、リバタリアニズムによつて私は「正しい戰爭」と「不正な戰爭」の區別を學んだ。私はそれまで、戰爭に正不正の客觀的基準は存在しないと考へてゐた。戰爭における正義とは所詮「自分の言ひ分」にすぎず、客觀的な正義など存在しないと思つてゐた。一種の不可知論の立場をとつてゐたともいへる。戰爭の原因はしばしば複雜だ。一方が正しく、他方が間違つてゐると言ひ切れない場合が往々にしてある。どちらにもそれなりの主義主張がある。ならば客觀的に「正しい戰爭」などあり得ないと最初から割り切つた方がよいと思つてゐた。

しかし一方で、正義の客觀的基準がまつたく存在しないといふのもまた、極端に走つた謬論ではないかとの思ひも心の隅に抱いてはゐた。早い話、自分が正しいと信じてゐるからといつて、相手を非戰鬪員もろとも大量に殺戮するやうな戰爭が許されるとは、常識的に考へてをかしい氣がする。だが戰爭に客觀的な正義はないといふ立場をとる限り、そのやうな民族淨化的な戰爭が「をかしい」と言ふことは論理的にできない。

これに對しリバタリアニズムは「生命・財産を不當な暴力から守るために必要な暴力は正しく、さうでないものは正しくない」といふ明確な基準がある。私は、戰爭が正しくあるためには自分が正しいと主觀的に信じてゐるだけではダメで、客觀的な基準を滿たす必要があると考へるやうになつた。また、客觀的基準を提示することは可能だし、中でもリバタリアニズムの基準こそ最も適切だと信じるやうになつた。たとへばアメリカによる對イラク、對アフガニスタン戰爭はこの基準を滿たさないので、不正な戰爭だと認識するやうになつた。(ただしアメリカのリバタリアンでもイラク・アフガン戰爭を支持する人はゐる。リバタリアニズムは必ずしも一枚岩の思想ではなく、私が高く評價するのはその一部の流派だといふことを斷つておく)

次に、リバタリアニズムによつて私は「個人の行爲」と「政府の行爲」を地續きに考へることを學んだ。一般の通念では、政府の行爲は特別視されてをり、個人と同一の基準で裁くのは誤りとされる。たとへば暴力または脅しにより他人の財産を奪ふことは、個人が行へば犯罪だが、政府が行ふと「課税」として免罪される。これは世間ではあまりにも當然のことと思はれてゐるし、正當化する學問的根據も數多く用意されてゐるので、疑問に感じる者はほとんどいない。しかしやはりをかしい。政府といへども個人の集團にすぎない。個人が行へば犯罪である行爲は、個人の集團がやつても犯罪だし、それが政府といふ名の集團でも變はりはないはずだ。多數決といふ手續きを踏んでゐたとしても正當化する理由にはならない。多數で決めたから何をやつても(たとへばユダヤ人を抹殺しても)よいとは言へないからだ。

個人が人を殺せば、正當防衞など正當な理由がない限り、殺人罪となる。であれば政府が多數の人を殺せば、それが戰爭によるものであつても、正當な理由がない限り、殺人の罪を犯したことになるはずだ。法的に裁けるかどうかは別として、少なくとも道徳的な罪として糺彈されるべきはずだ。「一人殺せば殺人者で百萬人殺せば英雄となる」といふ喜劇王チャップリンの皮肉な言葉は、政府の行爲を特別視する欺瞞を見事に衝いてゐる。

目的と手段の關係も重要だ。非戰鬪員を空襲や原爆で無差別に殺害することは、かりに戰爭そのものの目的が正しいとしても、正當な手段の範圍を逸脱してをり、不正な行爲と呼ばなければならない。マレー・ロスバードが『自由の倫理学』で述べたやうに、核兵器は本質的に無差別殺戮しかできない兵器だから、その利用は許されない。したがつて論壇で話題になる日本の核武裝には決して賛成できない。

すでに述べたやうに、リバタリアンは課税を財産の不正な收奪とみなす(すべての課税を不正とみなす急進的立場のほか、最低限の課税は認める穩健的立場もある)が、同樣に、徴兵も身體的自由の不正な侵害とみなし、反對する。そして國防はあくまでも個人の自發的な意思に基づき行ふべきだと主張する。首尾一貫してをり、私もこれに同意する。徴兵制復活論は右翼だけでなく左翼からも提言されることがあるが、これは右翼と左翼がともに國家主義者といふ同じ穴の狢であることを物語つてゐる。

とりとめなく書いてきたが、戰爭について今の私はおおよそ以上のやうな考へを持つてゐる。以前の自分の主張との折り合ひについて、もつと書きたいことはあるが、機會を改めたい。

戰爭はリバタリアンにとつて最大の問ひであり、避けてはならない問ひでもある。貿易制限や通貨膨脹による財産の侵害にいきり立つのに、戰爭による生命・身體の侵害について肩をすくめるだけで何も論じないのは、バランスを失してゐる。來年は戰爭と平和について、もつと積極的に書いていきたい。

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