余は如何にして自由主義者となりしか

(明けましておめでたうございます。以下は2008年1月3日に「地獄の箴言」で書いた文章の再掲です)

こんな小さな發表の場しかない無名人のくせに、まるで大思想家のやうな大袈裟な信條告白を以下記したいと思ふ。正月休みで暇を持て餘していらつしやる方のみどうぞ。かなりの長文です。

最近木村は左翼みたいな事ばかり書いてゐるとお感じの方がいらつしやると思ふ。國家を非難したり、反戰主義者のやうな事を云つてみたり。それはここ數年の摸索を經て、物事の考へ方についての據り所が大きく變はつたからである。以前の據り所は大まかに云へば保守主義であつた。現在は違ふ。自由主義である。それも「大まか」な自由主義などではなく、嚴密で徹底した自由主義である。さうなつた經緯を簡單に云へばかうだ。

仕事でスイスに赴任してゐた2001年秋、例の9-11テロが勃發した。ヨーロッパは午後で、同僚からの電話に促されてテレビを點けたら、もうもうと煙を上げるニューヨークの世界貿易センタービルの映像が現れた。その後、アメリカ政府はアフガニスタンイラクでの戰爭に突入して行く。案の定、日本を含め世界にはアメリカを非難する聲が渦卷いた。當時の私にはそれは餘りにも安易な思想的態度に思へ、大いに不滿だつた。主流メディアの主張は九分九厘、反米的な内容で、逆の意見を知りたいと思つても讀めないのだ。

そこで私はアメリカの保守派智識人たちの書いた本を讀むことにした。本來の趣旨から云へば、對アフガン・イラク戰爭を唱道した「ネオコン」智識人たちの著書を澤山讀むべきだつたのだが、何せ初學者なものだから、ふとした彈みで、「反左翼」と云ふ意味では保守派に一應分類されるが、對外干渉主義のネオコンとは思想的に對極にある智識人たちの本を手に取つて仕舞つた。それがアメリカの自由至上主義者、專門用語を使へばリバタリアンの著作だつたのだ。

How The Catholic Church Built Western Civilization

How The Catholic Church Built Western Civilization

私が最初に讀んだ二册のリバタリアンによる著作は、トマス・ウッズ(Thomas E. Woods Jr.)の『カトリック教會は西洋文明をいかに築いたか(How The Catholic Church Built Western Civilization)』と、トマス・ディロレンゾ(Thomas J. DiLorenzo)の『資本主義はアメリカをどう救つたか(How Capitalism Saved America)』であつたと思ふ。いづれも篦棒に面白い本だつたが、これら二人の著者はアメリカにあるミーゼス研究所と云ふシンクタンクにいづれも所屬してゐた。ミーゼス研究所の名は、オーストリア出身の自由主義的經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに由來する。私はミーゼス研究所のウェブサイトを閲覽したり、リバタリアン思想について勉強したりするやうになつた。

How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present

How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present

だが何か變だ。まもなくさう感じるやうになつた。私はそもそも、アメリカの對外戰爭を支へる思想を知りたくて同國保守派智識人の著作を讀み始めたはずである。たしかにネオコンの本も面白いは面白い。だがそれ以上に面白いと思つたリバタリアンたちは、どうやらアメリカの戰爭に反對してゐるやうなのだ。そしてネオコン智識人やブッシュ大統領を口を極めて罵つてゐるやうなのだ、まるで日本の左翼言論人のやうに。これは困つたことになつた。

最も當惑したのは、ミーゼス研究所と一種の共鬪關係にある「アンチウォー・ドットコム」と云ふウェブサイトの存在である。このサイトへの寄稿者はリバタリアンばかりではないのだが、いづれにせよ「反戰」と云ふそのまんまの名前と内容で、反戰思想ほど底の淺い欺瞞的な思想はないと考へて來た私は大いに戸惑つた。ある日覗いてみたら、グアンタナモ米軍基地で行はれたテロ容疑者虐待の冩眞をでかでかと掲げ、アメリカ政府を糺彈してゐるではないか。「これぢやあ左翼と同じだ」。私はさう思ひ、リバタリアンとは縁を切ることにした。そのはずだつた。

しかししばらく時が過ぎた後、私はリバタリアンと徐々によりを戻した。とりわけ2002年に日本に歸任し、やがて國内論壇で反市場主義、反自由主義の風潮が吹荒れるのを目にしてから、リバタリアンの主張が再び輝きを増して見えてきた。それは私が曲がりなりにも經濟ジャーナリズムの世界で飯を食つて來たからと云ふよりも、もともとラディカルなものに惹かれやすい性格をしてゐたからだらう。ともあれ、私は再び熱心にミーゼス研究所やその關聯組織のサイトを讀むやうになつた。「アンチウォー・ドットコム」もである。そして得心した。冷靜に考へれば、テロ容疑者を虐待するのは立派な人權侵害である。自分が容疑者と同じ立場に置かれた時の事を考へてみるがよい。

また悟つた。ここで詳しく書く餘裕はないが、自由主義は絶對平和主義ではない。自らの生命と財産を侵害する敵に對しては斷乎鬪ふ思想である。しかし自らの生命や財産が明白に侵害されてゐるわけでもないのに、わざわざ海外に出掛けて行つてやらかす戰爭に對しては極めて否定的である。かうした形の反戰思想ならばアメリカに昔からある。いはゆる孤立主義である。過去においてはロバート・タフト上院議員が有名だし、最近ではかつて大統領選にも立候補した評論家のパット・ブキャナン氏(彼はリバタリアンではないが)が知られてゐる。ちなみに今年の米大統領選には、ミーゼス研究所と縁の深いリバタリアンで、候補者として唯一イラクからの米軍撤退を唱へるロン・ポール下院議員が參戰し、健鬪してゐる。日本の新聞では殆ど紹介されないが。

ともかく現在の私は日本やアメリカで云ふ「リベラル」(左翼の別稱)なんぞではなく、眞の意味での自由主義を信奉するやうになつた。我が國の智識人は自由主義を冷笑する傾向が強いが、それも當然で、日本に自由主義の知的傳統はない。だが西洋では少なくともジョン・ロックアダム・スミス以來の歴史がある。考へやうによつては、自由主義の源流はアリストテレストマス・アクィナスに遡る。要するに西洋と自由主義とは切つても切れない關係なのだ。自由主義が人間のすべての問題を解決するなどと云ふつもりはない。だが自由主義の背景にはそれを支へる優れた道徳哲學が存在し、それを含めて考究する價値は大いにあると思ふ。『國富論』を著したアダム・スミスは『道徳感情論』と云ふ著作も殘してゐるし、ミーゼスの弟子で戰後アメリカの代表的リバタリアンの一人だつたマレー・ロスバードは『自由の倫理学』と云ふ著書を書いてゐるのだ。

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

戰爭について云へば、正義の戰ひはある。だが正義の戰ひがあるとすれば、不正な戰ひも存在するはずだ。自由主義は兩者の峻別について一つの指針を與へるが、それに關しては追々書いて行きたい。經濟・政治・道徳問題についてもこれまで通り、だがより旗幟を鮮明にして書いて行きたいと思つてゐる。忌憚なき御批判を賜れば幸ひである。

私は、戰後日本を代表する評論家、福田恆存の一番弟子にして、英文學者・劇作家・文藝評論家・時評家である松原正先生(早稻田大學名譽教授)を深く尊敬して來たが、松原先生の思想と自由主義とは兩立できると考へてゐる。いやいや、そもそも私が自由主義を信奉するやうになつた一因は、何かと云ふと政治に頼らうとする日本人の心性を嚴しく批判されて來た松原先生の思想に接したことだと思つてゐるし、西洋思想を見る目を開いて下さつたのも松原先生なのである。 現在のこの文章の表記法も松原先生の影響が最も大きい。

それでは皆樣、ちよつと申し遲れましたが、今年もどうぞよろしくお願ひ致します。

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