無縁社会は惡くない――島田裕巳『人はひとりで死ぬ』

地域や家族の人間關係が稀薄になり、孤獨死が増える「無縁社會」が社會問題として取りざたされてゐる。菅直人總理は對策を檢討するため、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠内閣府參與ら有識者による特命チームを設置するやう指示したといふ。

しかし無縁社會とは本當に歎かはしい現象なのか。孤獨のうちに息をひきとることはそれほど忌むべき死のあり方なのか。宗教學者の島田裕巳は著書『人はひとりで死ぬ――「無縁社会」を生きるために』(NHK出版新書、2011年)で、無縁社會を全否定する風潮に異を唱へる。キーワードは「自由」だ。

無縁社會の對極は「有縁社會」であり、その代表は村社會だ。たしかに有縁社會では人間關係は緊密で、人々は孤立しない生活を送つてゐる。「だが、孤立しないということは、孤立できないということであり、自由が制限されることでもある」(53頁)。たとへば有縁社會では信教の自由が妨げられることがある。島田が村を調査した經驗によれば、創價學會など新宗教の信者が村の行事に參加するかどうかでもめ事が少なくなく、死者をどこにどうやつて葬るかも難しい問題になるといふ。

有縁社會では人々は地域社會に強く縛られてをり、しきたりに逆らへば村八分などの制裁を受けることになる。一方、都會の無縁社會では、人々は孤立して生活し、孤獨を感じることになるかもしれないが、地域社會に縛られることはない。しかも都會では市場經濟が發達し、生活は豐かだ。地方にない文化を享受することもできる。かうした事實を踏まへれば、村社會に代表される有縁社會を一方的に理想化し、都市の無縁社會を貶めることなどできないはずだ。

新潟出身の作家、坂口安吾は島田よりもはるかに無遠慮に村社會の一面を痛罵してゐる。「一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである」(「続堕落論」)

堕落論 (新潮文庫)

高度經濟成長時代、地方の農村部から大都市部への大規模な人口移動が起こつたのは、實家の相續權がない農家の次三男を中心に、田舎にとどまつてゐても自由で豐かな暮らしへの展望が開けず、都會を目指したからだ。島田は「その時代、私たちはまぎれもなく無縁を求めていた。無縁になることは束縛から解放されることであり、自由な暮らしを実現するための基本的な条件であった」(68頁)と指摘し、世間に流布する無縁社會否定論を次のやうに批判する。「現在の無縁社会の議論のなかでは、こうした側面が忘れられている。私たちが無縁を求めた過去が忘れ去られ、あたかもそれがなかったかのごとく扱われている」(同)

まさしくその通りだと思ふ。都會の生活が地方よりもあらゆる點で優れてゐるなどと言ふつもりはないが、無縁社會の恐ろしさをメディアがどれだけ喧傳しても、大多數の人は都會で暮らし續けてゐる。都會での生活は孤獨かもしれないが、それでも人々は「あたたかみのある」有縁社會よりも、無縁社會を選びとつてゐるのだ。

孤獨死・無縁死への恐怖を煽る風潮についても、島田は宗教學者らしい批判の目を向ける。佛教の教義によれば、そもそも死とは、現世との縁が切れ、無縁になることだ。「その意味では、あらゆる死が本質的に無縁死である」(196頁)。孤獨死は、人はひとりで死ぬといふ死のあり方を「もっとも直截な形で表現したもの」(同)にすぎない。だとすれば、家族に見守られながら死ぬことが幸せで、ひとり孤獨に死ぬことが不幸と決めつけるのはをかしい。

二十數年前、エッセイストの森茉莉が死んだときのことを思ひ出す。森茉莉森鴎外の娘で、耽美的な小説や齒に衣着せぬテレビ評などで人氣があつたが、獨身だつたため自宅で死後二日經つて發見された。マスコミは文豪の令孃の有名作家が最期は寂しい死を遂げたと紋切型に報じたが、これに對し森を敬愛する中野翠が週刊誌のコラムで怒つた。正確には覺えてゐないが、大意はかうだ。森さんはひとりで生きることを選んだのだ。ひとりで死ぬことはまさしくその結果だし、むしろ森さんにふさはしい立派な死だ。貶めるのは間違つてゐる。私は中野を正しいと思つた。

ベスト・オブ・ドッキリチャンネル (ちくま文庫)

もちろん孤獨死する人のすべてが、森茉莉のやうに自覺的にひとりきりの死を選んだわけではないだらう。家族の絆を求めながらも、經濟的事情などでそれが叶はず、孤獨な死におびえる人もゐる。さうした人たちを助ける活動はあつていい。もつとも適任なのは地域に密着して個々人の事情に詳しく、志の高いボランティア團體や宗教組織などだらう。生活必需品やライフライン關聯サービスを取り扱ふ一般企業も、良い製品・サービスを安價に提供することで、經濟的餘裕のない人々の暮らしを間接的に支へることができる。

一方、さうした仕事にもつとも不向きなのは政府だ。福祉行政を擔當する公務員には誠實で熱心な人もゐるだらうが、それだけでは本當に困つてゐる人を救へないし、國民全體に過大な負擔をかけかねない。社會保險廳の「消えた年金」問題や社會保障費の膨脹による財政の危機的状況を思ひ起こすだけで、そのことは明らかだらう。政府が今後どのやうな「無縁對策」に乘り出すかわからないが、いづれにせよ財源は民間から徴收するほかはなく、さうなればその分、人々がボランティアとして活動したり寄附したりする餘裕がなくなるし、企業が安くて良い商品をつくるための投資に囘せる資金も乏しくなる。

國民の側にも問題はある。島田は「一番問題なのは、すぐに政治や行政をあてにしてしまう私たちの思考方法である」(27頁)と的確に指摘してゐる。かうしたまつたうな主張が宗教學者によつてなされ、本業であるはずの經濟學者からあまり聞こえてこないどころか、むしろ「無縁社會は惡い」といふ俗論に迎合し、政府の干渉を正當化するやうな主張が目立つのは困つたものだ。

島田は、私たちが選ぶべき選擇肢は二つだといふ。一つは、あくまで縁を大切にし、無縁死に陷らないやう努力すること。もう一つは、孤獨に死ぬことをあらかじめ覺悟することだ。いづれの道を選ぶにせよ、そこに政府が介入する餘地はないし、介入させてはならない。孤獨はもちろん、本當の縁もまた政治のお仕着せによつて手に入れることはできないからだ。

蛇足めくが、感心したことを一つ附け加へておく。島田も本書で觸れてゐるが、そもそも無縁社會といふ言葉は、2010年1月末に放送されたNHKスペシャルから生まれた。想像がつくと思ふが、この番組では無縁社會は希望がまつたく失はれた暗い社會として描かれてゐた。しかし島田は、そのNHKの出版部門から、看板番組の論調をまつかうから批判する本を上梓したのだ。本體と出版部門は別組織とはいへ、軋轢がまつたくなかつたとは思へない。書いた島田も偉いが、書かせた編輯者(高井健太郎といふ人らしい)も大したものだ。かうした素晴らしい言論の自由も、無縁社會だからこそ可能なのだ。

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