市場の驚異を語れ

第一次世界大戰で若くして命を落とした兵士の一人に、アメリカの詩人、ジョイス・キルマーがゐる。もつともよく知られるのは「木」("Trees")といふ短い作品だ。

思ふに、木ほど美しい詩に
めぐりあふことは決してあるまい


大地のゆたかな乳房に
餓ゑた口を押しあてる木よ


日もすがら神を見上げ
緑なす腕で祈りを捧げる木よ


夏ともなれば駒鳥の巣で
髮を飾る木よ


雪を胸に降り積もらせ
雨を友に暮らす


詩は私のやうな馬鹿がつくるが
木は神のみがつくりたまふ

熱心なカトリック信者だつたといふ作者の信仰心がうかがへるが、それとともに傳はつてくるのは、自然にたいする驚異の念だ。木は美しいだけではない。土深く根を張り、水と養分をとりこむ。太陽の光を葉に浴び、光合成で糖分をつくる。實を鳥がついばみ、離れた土地に種を運び、そこで新しい木が育つ。じつにうまくできてゐるではないか。キルマーはかうした驚きを率直にうたつた。

詩人に限らない。自然科學者が著す一般向け讀み物も、自然の不思議にたいする素直な驚きに滿ちてゐる。おそらく彼らが科學者を志したきつかけも、幼いころに感じたさうした驚きだつたに違ひない。『沈默の春』で有名なレイチェル・カーソンは、自然の神秘に目をみはる感性を「センス・オブ・ワンダー」と呼び、稱へた。ありふれた光景に秘められた精妙な働きに人が氣づき、驚歎するとき、詩や科學は生まれるのだらう。

センス・オブ・ワンダー

さて社會主義國以外では、市場經濟は自然と同じくらゐ、いやある意味ではそれ以上、ありふれたものだ。現代では大多數の人が都會に住んでおり、自然と接する機會は減つてゐるが、市場經濟と無縁ではゐられない。だれもが消費者として、あるいは勞働者として、日々かかはつてゐる。自然の美は世俗の憂さをしばし忘れさせてくれるが、市場經濟はせはしない日常そのものだ。そればかりか、金持ちをますます富ませ、貧しい者をますます貧しくすると非難されることさへある。

こんなあぢきない營みにも、目をみはるやうな驚きが隱されてゐるのだらうか。答へはイエスだ。アメリカの自由主義シンクタンクの草分けといはれる「經濟教育基金」の設立者、レオナード・リードはそれを示すために、キルマーの詩を念頭に、親しみやすい物語を書いた。題名を「私は鉛筆」("I, Pencil")といふ。

リードは一本のありふれた鉛筆の口を借り、次のやうに語り始める。「私をどうやつてこしらへるのか、知つてゐる人は一人もゐない」。なんの變哲もない鉛筆でも、できあがるまでには想像以上に多くの人々がさまざまな形でかかはつてゐるからだ。

まづ「カリフォルニア州の北部やオレゴン州に生えてゐる一本の眞つすぐなヒマラヤ杉」が材料の材木となる。この木を伐採して、鐵道の引き込み線があるところまで材木を運んでいくためには「のこぎりやロープや、その他にも數へきれないほど多樣な道具や用具」が必要になる。「のこぎりや斧やエンジンをこしらへるためには、礦石を採掘し、鐵鋼をこしらへ、これらをさらに精錬し精製しなければならない。重くて強いロープをこしらへるのには、麻を栽培し、麻の纖維をつくり、その他あらゆる必要な過程へと、これを通過させていかなくてはならない」。材木切り出し小屋のためのベッドも必要となるし、食事場もこしらへなければならない。働いてゐる人々がそこで飮むコーヒーにいたるまで、それをこしらへるには何千人もの人々がいろいろな形で關係してゐる。

しかもこれはまだ、鉛筆の外側の木部だけの話でしかない。芯をつくるにはセイロン島で採掘される黒鉛が必要だし、鉛筆の端にある眞鍮製の環をこしらへるには「亞鉛や銅を採掘し、またかうして採掘された自然の原材から、ピカピカ光つた眞鍮板をこしらへる技術やウデをもつた人々」がかかはつてゐる。消しゴムの部分はインドネシアから來た菜種油を鹽化硫黄と作用させ、ゴム樣生成物をつくらなければならない。これらを組み合はせて、ようやく鉛筆はできあがる。

ところが鉛筆づくりにかかはつた人々は、だれも鉛筆がほしいから仕事をしたわけではない。なかには、この世でそもそも鉛筆なるものを見たこともなければ、鉛筆がいつたい何のためのものかさへ知らない人たちもゐるかもしれない。彼らが鉛筆生産のためそれぞれなりの仕事をしたのは、それぞれなりにほしいと思つた他の財貨やサービスを交換によつて手に入れるためだ。

もつと驚くべきは、鉛筆の生産全體をとりしきる立案者も監督者も存在しないことだ。だれの命令も受けなくとも、人々は必要とされるものを協力してつくりだす。この物語を自著『選択の自由』第1章で紹介した經濟學者、ミルトン・フリードマンが言ふやうに、鉛筆生産にたづさはつた人々はさまざまな國に住み、異なる言語をしやべり、いろいろな違つた宗教を信仰してゐるだけでなく、ひよつとするとお互ひに憎み合つてゐる可能性さへある。ところがさうした相違は、お互ひが協力するのになんの障碍にもなつてゐない。なんとうまくできてゐることか。中央集權的な立案者の代はりに、アダム・スミスの言ふ「見えざる手」が働いてゐるのだ。

選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)

リードは鉛筆に誇らしげに語らせる。「神だけが木をつくることができるのなら、私をつくることができるのも神だけだ」。この世界で驚くべきものは自然の攝理だけではない。私たちが日々營む一見平凡な經濟生活にも、それに劣らぬ驚異が潛んでゐるのだ。

しかし自然科學者と違ひ、現代の經濟學者や經濟評論家には、リードのやうに市場經濟の驚異を情熱をもつて傳へようとする人はほとんどゐない。むしろ口を開けば市場はうまく機能しないと語り、だから政府の介入が必要だと主張する。

私は人々が市場での自發的な交換を通じ社會をつくりあげる力を信じる。市場をやみくもに信仰すると言つてゐるのではない。自然の神秘を科學で解き明かすことができるやうに、ものごとを政府より市場に任せた方が賢明であり正義にもかなふことは、理性によつて確かめることができる。科學者の多くは、自然の神秘を理性によつて論理的に説明できるからこそ、よりいつそう驚異の念に打たれると述べてゐる。私は經濟學の素人にすぎないが、市場の不思議とすばらしさについてもつと考へ、語りたいと思ふ。

(註1)「私は鉛筆」の譯文は一部を除き『選択の自由』(西山千明譯、日経ビジネス人文庫)の引用から借り、表記を變更した。「木」は拙譯。
(註2)anacapさんによる Libertarianism Japan Project へのポスト「鉛筆はどうやってできているのか」から、フリードマンが鉛筆について語る動畫を見ることができる。
(註3)拙文公開後、蔵研也さんが "I, pencil" 全文を「わたくし、鉛筆」と題して譯出された。

<こちらもどうぞ>