ハイパーインフレはあり得ないか――『日本が破綻しない10の根拠』を斬る(3)

最後はもう一度ハイパーインフレについてだ。

【07】年率1万3000%の物価上昇など、起こしたくても起こせない!

政府が大量のカネを刷る一方で、人々がそのカネを信用できなくなり、カネを受け取つたら即坐に店に走り、先を爭つて物と引き換へる(物を買ふ)やうな状態になると、物の値段が天文學的に跳ね上がる。これをハイパーインフレと呼ぶ。だが日本では絶對に起こらないと筆者らは斷言する。

本書ではハイパーインフレになる條件として(1)生産設備・流通網の全潰(2)勞働力不足(3)超大量の紙幣發行――の三つが必要としてゐるが、(1)と(2)は過去のハイパーインフレでそのやうな經濟状況の場合が多かつたといふにすぎない。難しく言へばインフレとはいついかなる場合も貨幣的現象であり、本質的な原因は大量の紙幣發行だけだ。つまりハイパーインフレになるとしたら、その責任はすべて政府にある。

図解でわかる! 日本が破綻しない10の根拠 (別冊宝島) (別冊宝島 1722 ノンフィクション)

逆に言へば、カネへの信用が全潰しない程度に政府が紙幣の發行量を抑へてゐるうちは、ハイパーインフレにはならない。そこでリフレ政策を支持する人々は「物價上昇が一定以上になつたら日銀がカネを刷るのをやめるといふルールをあらかじめ定めれば、それ以上のインフレにはならないし、ましてやハイパーインフレになどならない」と主張する。いはゆるインフレ目標政策だ。

このルールが嚴格に守られるのであれば、大幅なインフレは起こらないかもしれない。しかし問題は、政府が本當にルールを守り通すかどうかだ。それは大いに疑はしい。政府がそれほど規律正しい存在なら、財政が今のやうな危機的状況に陷ることなどなかつたはずだ。物價上昇が目標値に達し、金融引き締めに轉じるべきときが來ても、選舉を控へた政府が景氣への影響を心配し、ルールの拔け穴を利用したり、棚上げや見直しを言ひ出したりすることは目に見えてゐる。

それでも景氣浮揚を目的とした金融緩和は、選舉が終はるまでだと人々が思ふだらうから、圓への信用が完全に崩れるには至らないだらう。むしろ現在の日本の經濟状況を考へたとき、ハイパーインフレの火種にもつともなり得るのは、借換債だけで年間百兆圓に達する多額の國債發行だ。

これまで日本國債はその九割以上を國内の投資家が一手に買ひ取つてきた。だが少子高齢化と不況で家計の貯蓄率がゼロに近づき、贖入の餘力は細りつつある。不況の影響は景氣が恢復すれば解消するかもしれないが、少子高齢化は構造的な要因だから、移民を積極的に受け入れでもしない限り、逃れやうがない。

國債が國内で賣れなければ海外投資家に買つてもらはなければならないが、米歐の三パーセント臺を大きく下囘る現在の一パーセントそこそこの表面利率ではなかなか買ひ手がつかないだらう。かといつて利率を高くすれば利拂ひ負擔が重くなり、その支拂ひに充てるため、また國債を増發するといふ惡循環に陷る。

大幅な増税が政治的に難しいことを考へれば、結局、政府・日銀は賣れない國債を自分で買ひ取るために、まとまつたカネを刷らざるを得なくなる公算が大きい。それがハイパーインフレを招くと言ひ切ることはできないが、景氣對策といつた期間限定の目的でなく、資金繰りに窮していつ終はるかわからない紙幣發行に追ひ込まれれば、人々のカネに對する信用が急速に失はれても不思議でない。

そもそも政府は、インフレになるほど債務の返濟が樂になる。カネの値打ちが下がる分、元利拂ひの負擔が實質輕くなるからだ。もしハイパーインフレになれば、ほとんど解決不可能な債務問題から一氣に解放されることになる。インフレを投機や軍事的緊張、國際的な金融危機など自分以外の何かに責任轉嫁しさへすれば、政治的な非難も避けられる。誘惑に屈しないと信じる理由はない。

ジャーナリストのアンブローズ・エヴァンスプリチャードが書いてゐるやうに、フランス、ドイツ、ポーランド、ブラジル、ボリビアの五カ國では、いづれも政府支出に對する財政赤字の比率が三分の一を上囘る状態が數年續いた後、ハイパーインフレが起こつた。日本はすでに九年間、この危險水準を超え、比率は五割に達してゐる。

デフレの日本にハイパーインフレが來るなどと言へば正氣を疑ふやうなムードが今は強いが、亡國の危機に用心しすぎてしすぎることはない。南米のある銀行家はこんな言葉を殘してゐる。「ハイパーインフレの問題は、突然やつてくることだ。何が起こつたか氣づいたときには、もう手遲れなのだ」

(註)ここでは觸れなかつたが、「日本には約四十兆圓のデフレギャップがあるから、これを上囘るカネを刷らない限りインフレにはならない」といふ主張は誤り。拙文「供給力過剩のまぼろし」および「ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ」の「需給ギャップとか言ってんじゃねえ」を參照。

<こちらもどうぞ>