【寄稿】地方分権(decentralization)を越えて無政府主義(anarchism)の実現へ

近年地方分権についての議論が花盛りである。民主党の某幹部の説明では地方分権とは中央政府の保持する権力を地方自治体(地方政府)へ委譲することをいうらしい。しかし既に述べたように権力(right)の唯一の保持者は個人であるから、この委譲とは権力ではなく権限(authority)とでも解するのが正当であろう。

用語の問題はさておき、リバタリアンの立場からこの問題を考えるとき、参考になるのはレプケ(Wilhelm Röpke)の「階層的秩序の補助性の原則」(Prinzip der Subsidiarität)であると思う。この言葉はカソリックの社会理論からの借用であるとレプケはいうが、その意味するところは概ね以下の通りである。

我々は個人から家族、地方自治体(市町村、都道府県)を経て国家(中央政府)に至る階層的秩序の中で生活しているが、本来の権利(権限)は下の方の階層にあり、高い方の階層はすぐ下にある階層では問題を処理できなくなった時、単に補助的に下の階層の代りに現われるに過ぎない。従って中央政府に対立して侵害することのできない自由分野を持つのは地方自治体(地方政府)である。中央政府地方自治体の補助代行機関に過ぎない。これがレプケの説明である。

このレプケの考え方では、現行の権限の委譲という表現は僭越であり、返還または奉還とでも表現するのが適切であろう。

そうした表現の形式は別として、地方分権論が流行するのは、中央政府に補助代行してもらう必要のない分野・領域が拡大したからであろう。行政機構が肥大化し、中央地方を問わず、非効率性が増大する等の弊害が生じて来たことを自覚して、分権が必要と判断する政治家や選挙権を有する個人が増えて来た証拠である。これは結構なことであるが、リバタリアンの立場からいえば、権限の委譲(返還)は地方自治体の段階に止まらず、階層的秩序の基底にある個人、すわなち唯一の権利の所持者のところまで進展させるべきである。そうすれば無政府資本主義が実現する筈である、と私は考える。

肩をすくめるアトラス

ところで無政府資本主義論者は一体どのような姿の世界をイメージしているのだろうか。アイン・ランド無政府主義者ではないが、彼女の『肩をすくめるアトラス』と題する長編小説の中で、彼女の描くマリガンの谷、またはゴールト峡谷という理想郷では、使用される貨幣は金であり、小銭は銀である。この世界にも造幣局、裁判所、警察隊等も存在する。しかしこの世界は、「権利は個人のみが所有するものであり、誰も他人の権利を侵害しない」という理性的な人々が私利だけで結びつく自発的な連合であるとランドはいう。私はこの小説上のユートピアロスバードの主唱する無政府主義の具現化と見做してもよいと思う。

このような世界を実現するには、個人自身がリバタリアンの道徳を身につけた理性的な人間でなければならない。個人の生命・財産を侵害する存在から個人を保護する能力のある競争的な防衛企業・産業や、個人の意見の対立を調整・裁定する裁判所や、警察隊や造幣局も必要であろう。そうした企業や機関の能力は現在の政府の管理・規制下にある組織よりも公平かつ効率的でなければならない。このような諸条件が整備されてこそ政府の権限が個人へ返還されるという階層的秩序の補助性の原則の精神を貫徹させることが出来るのである。

しかしそのような条件整備は、現状のように、個人が法律や法令で雁字搦めにされている限り不可能に近い。だから我々はそうした規制を一つ一つ破棄せねばならないが、それには選挙権をもつ個人の啓蒙が肝心である。現状では選挙権をもつ人々の多数は政府の負債がいくら増大しようとも、眼前の利益に目がくらみ、政府資金のばら撒きを歓迎する有様であるから、規制の破棄どころか緩和すら困難である。加えて、理想的な防衛私企業がかりに出現すると仮定しても、近隣に餓狼の如き無法者国家や、一党独裁の専制的侵略的国家が存在する限り、これらの諸国の侵略に対しては、中央政府でさえ、十分な対処能力を持っていないように思われる。私的防衛企業が果たして無法者国家に対して個人の権利を守り通す能力を保持することが可能かどうか、甚だ疑わしいと考えざるを得ない。

私はこれらのことを考えるにつけ、無政府資本主義の世界は人類の到達すべき目標であって、実現は遥か将来のことであろうと思う。私は今を生きるリバタリアンの若き世代の方々が、将来に実現すべき目標達成の為に、「種を蒔く」人であってほしいと願う。

アイン・ランドのいうには、人間には active な人間と、 passive な人間の二つの型がある。前者は製造者・創造者・個人主義者であり、その基本的性格は、思考と行動の独立性にある。世界のあらゆる良い仕事は彼等によって達成された。これに対し後者は個人としての独立性を恐れ、他人によって大事にされることを望む寄生虫の如き存在であり、他人からの指令を願い、集産主義(福祉国家もその変種の一つである)を歓迎する。人類の進歩は前者の型の人間が後者の型の人間を屈伏させ立ち上がらせることによって可能になる、とランドは説く。リバタリアンはこの前者の型の典型として、目標達成の為に人々の先頭に立って頂きたい。これが一人の老学徒の切なる願いである。

新オーストリア学派の思想と理論 (MINERVA現代経済学叢書)

【筆者紹介】越後 和典(えちご・かずのり) 1927年滋賀県に生まれる。1950年京都大学経済学部卒業。現在、滋賀大学名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。産業学会名誉会員。経済学博士。著書に『競争と独占』(ミネルヴァ書房、1985年)、『新オーストリア学派の思想と理論』(同、2003年)など。

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