「フラット課税で税収アップ」を嬉しがる人たち

金融日記」の藤沢数希氏が「所得税はフラット10%にして大幅な税収アップ」といふ文章を「アゴラ」に寄せてゐる。フラット課税とは所得の多い少ないにかかはらず、同じ税率を適用する制度だ。現在、日本では所得が多くなるほど税率も高くなる累進課税を採用してをり、地方税である住民税を含めると最高で50%の税率がかかる。これは世界で最も重い税負擔だといふ。

一部の高所得者にだけ過酷な重税を課すのは「フェア」と言へないし、そのやうな税制を續けてゐると、高い所得を稼ぐ能力のある優れた人材が海外に移住したり日本に寄りつかなくなつたりして、日本の經濟力が衰へ、結局は低・中所得層の生活も苦しくなる。さうした事態を避けるために、累進課税をやめ、香港やシンガポールのやうな税率の低いフラット課税にすべきだと藤沢氏は主張する。日本のサラリーマンの大多數は所得税を拂つてをらず、實質的な税率は平均で「わずか3.9%」。これを10%に引き上げれば「10兆円以上の税収増が簡単に実現できる」から、深刻な財政難も改善できるといふ。

藤沢氏は資本主義を肯定してをり、日頃の主張には同感できるものも多い。しかし今囘のフラット課税導入論にはとうてい賛成できない。フラット課税はなんとなく資本主義・自由主義の理念に合致するやうに思はれてゐるだけに、始末が惡い。藤沢氏の議論とフラット課税そのものについて、どこがをかしいか説明しよう。

根本的にをかしいのは、税收が増えること、つまり増税をまるで良いことであるかのやうに書いてゐる點だ。もちろん藤沢氏が言ふやうに、高所得者への重税はやめるべきだ。しかしその分の税を、いやそれ以上の税を、低・中所得者に負はせてよい理由はない。

「わずか3.9%」といふ表現からもうかがへるやうに、藤沢氏は、低・中所得者の税率が高所得者よりもかなり低いことを「フェア」でないと考へてゐるらしい。しかしマレー・ロスバードが指摘するやうに、税とは政府による私有財産の強奪なのだから、ある人々の税負擔が重く、別の人々の税負擔が輕いことを「フェアでない」などと言ふのはをかしい。それはまるで、強盜の被害額が人によつて違ふことに「フェアでない」と不平を鳴らすやうなものだ。

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

百歩讓つて、「社会の共通経費を皆でフェアに負担しあう」といふ藤沢氏の理念を認めたとしても、それを實現する手段としては、所得が多い人ほど多額の税を負擔するフラット課税よりも、誰もが同じ額の税金を支拂ふ人頭税の方がふさはしいはずだ。なぜなら眞の意味で「フェア」な價格とは市場で決まる價格であり、市場では所得の多い少ないにかかはらず、人は同じ商品・サービスには同じ金額しか拂はないからだ。パン一個の値段が普通の人は百圓で、ビル・ゲイツのやうな大金持ちは百萬圓などといふことは決してない。

このやうな正義にもとづく理由でなく、經濟的な理由に限つても、増税は賢明でない。經濟が發展するうへで缺かせないのは投資であり、投資の原資となるのは貯蓄だ。高所得者への課税が輕くなつても、低・中所得者への課税がそれ以上に重くなり、全體として民間への負擔が増せば、その分貯蓄に囘す餘裕が減つてしまふ。さうなれば經濟發展にはマイナスだ。

最良の税とは

以前も書いたことだが、税制變更の良し惡しを判斷する基準はひとつしかない。それは變更前後で税金の額が全體として増えるか減るかだ。藤沢氏が提案するやうな、全體として増税になる税制は、もちろん惡い税制だ。フランスの自由主義的經濟學者、ジャンバティスト・セイは「最良の税とは最も輕い税だ」といふ言葉を遺してゐる。

だから良い税制であるためには、別にフラット課税である必要はなく、累進課税でも構はない。たとへば税率が最低1%、最高9%の累進課税と、藤沢氏が提案するやうな一律10%のフラット課税とでは、言ふまでもなく、前者の累進課税の方が望ましい。

フラット課税論がいやらしいのは、税負擔が輕い者や、課税をうまく囘避してゐる者への嫉妬心を煽るところだ。藤沢氏は税金を納めない低所得サラリーマンを非難してゐるし、自營業者もその「税逃れ」がよく槍玉に上がる。しかし市場での取引を通じて稼いだ所得はすべてその人の正當な財産なのだから、それを政府に奪はれまいと抵抗し、奪はれたら少しでも取り戻さうとするのは當然であり、なんら恥づべきことではない。支配される者たちを嫉妬で互ひに反目させ、分斷し、支配者への不滿をそらすのは、政府が使ふ古典的な手段だ。

とりたてて大金持ちといふわけでもないサラリーマンの間でも、フラット課税への支持は少なくないやうだ。おそらくそれは、税を逃れてゐる連中に課税の網がかかるのはいい氣味だといふ歪んだ正義感や、自分はフラット課税によつて税が輕くなるといふ期待によるものだらう。歪んだ正義感が嫉妬の裏返しでしかないことは繰り返すまでもないが、税が輕くなるといふ期待もおめでたいと言はざるを得ない。

藤沢氏の提案はフラット課税の導入當初から全體で増税になるといふ、政府が大喜びしさうな内容だが、かりに税率をもつと低く抑へ、導入直後に税收が増えない設計にしたとしても、將來増税になる恐れは強い。フラット課税には、増税にうつてつけの仕組みが組み入れられてゐるからだ。それは「課税ベース」の擴大だ。

フラット課税では税率を低く抑へるために、課税の對象(課税ベース)を廣げる。それまで税がかからなかつた低所得者も課税の對象とし、課税対象から除くことを認めてゐた控除項目を廢止する。きはめつけは、政府が國民ひとりひとりの所得や資産の状況を把握・管理する納税者番號制の導入だ。市民の財産状況を一網打盡にできる手段を、貪慾な政府が手にしたとき、それを増税に使はないと信じるのは、よほどのお人好しだらう。

財政難は増税でなく、大幅かつ長期の支出削減で解決するか、それが無理なら國債など公的債務の不履行(デフォルト)でけぢめをつけるべきだ。債務不履行を選んだ場合、歴代の政府關係者の責任を問ふべきことは言ふまでもない。

資本主義の根幹は個人の財産權だ。それが増税によつて絶えず脅かされるやうな社會では、經濟が持續的に發展することも、人々が豐かに暮らすこともできない。結果として減税になるといふならまだしも、増税を前提としたフラット課税など、隸從に通じる地獄の門でしかない。

<參考資料>
Murray N. Rothbard, The Case Against the Flat Tax [PDF]

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