呉智英氏の思ひ出(5)反論

岡庭昇氏は私と保坂氏との投稿に對し、次號3月号の投書欄で早速反論してきた。「汚れ切つた政治的動物どもに」といふ凄まじい題名である。私にたいする批判の部分を引用する。

木村貴氏への質問。あなたは呉智英先生の文章を読んでいないと公言しているが、読んでいないものをあれこれ論じられるという神秘的な自信の根拠は何なのか。なぜ、投稿する前に読もうとしなかったのか。だからこそ、君は、ここで誰でもわかるウソを堂々とついている。


“呉氏の「バカ」という言葉に激高のあまり”というデマだ。呉智英さんは、岡庭のことを、一言もバカとは言っていない。従って、君の書いているようなことは、ありえません。読んだことのないものは批評できない。常識ですね。君の最低限のモラルは一体どうなっているのですか。


木村君。あなたは、平気でさらにウソを重ねている。岡庭さんが、一体これまでどれほど“三浦弁護における自らの立場”を“公の場で明確に”してきているか、本誌の読者レベルなら誰だって知っている話ではないか。わたしはすくなくとも二冊の書籍においてこのテーマを全面的に展開し、「創」誌三年の連載においても、おりに触れて論じています。だからこそ、鮎川信夫氏が「諸君!」でわたしの論を批判し、「諸君!」大好きの呉智英君が、鮎川さんを利用したわけじゃないか。すぐばれるようなウソをついてまで、呉先生をかばおうとの志も結構ですが、そういうのをヒイキの引き倒しというのです、覚えておきなさい。それに、何が起こっているのかもわからないままに、文章を書かないこと、ママにきいてごらん。きっと、そういうからね。ともかくウソは上手について、アマチュアの論客らしくやってください。

さすがに岡庭氏は、「12月號の『折々のバカ』を讀んでゐません」といふ私の屁放り腰の文章を見逃さなかつた。アメリカのある高名な辯護士は、訴訟に勝つ最大の秘訣は「正直に話す事」だと著作に書いたといふ。なるほど、裁判で小さな嘘をついたばかりに他の事實や證言との辻褄が合はなくなり、かえつて心證を損なふ場合は多からう。私は詰まらぬ動機で不正直なことを書いたばかりに、岡庭氏に恰好の攻撃材料を提供してしまつたのである。「立讀みで讀んだ」と堂々と書けば良かつたと、後悔したもう一つの理由とはこれである。

バカにつける薬 (双葉文庫)

私は岡庭氏から甘いガードを衝かれ、「読んでもいないものをあれこれ論じられるといふ神秘的な自信の根拠は何なのか」と鋭いジャブを食らつた。だが、マットに埋められはしなかつた(と自分では判定した)。幸ひ、岡庭氏の二の矢、三の矢が急所を外した所ばかりに飛んで來たからである。まづ岡庭氏は「君は、ここで誰でもわかるウソを堂々とついてゐる」と極めつけたが、その根據は「呉智英さんは、岡庭のことを、一言もバカとは言っていない」からだといふ。これはをかしい。たしかに、12月號のコラムの本文には、岡庭氏を直接「バカ」と呼んだ箇所はない。しかし、そもそもコラムの題名が「折々のバカ」ではないか。「バカ」を取上げて批判するのがコラムの趣旨であり、その中で岡庭氏が批判された以上、呉氏は岡庭氏を「バカ」と言つたと同じである。私は呉氏の文章を實際には讀んでゐたが、この程度のことなら讀まなくともわかる。

それに、次の1月號、すなはち岡庭氏が私への反論を寄せる二ケ月前の「折々のバカ」において、呉氏ははつきりと書いてゐる。「世の中には、もう一つ輪をかけたバカがいる。珍左翼である」。この文章に岡庭氏の名は出ないが、呉氏は12月號のコラムで「上野昂志は、岡庭昇と並ぶ珍左翼の巨魁である」と書いてゐたのだから、呉氏によれば「岡庭氏=珍左翼=バカ」の等式が成り立つのは明白である。

續いて、岡庭氏はこれまで樣々な機會に「“三浦弁護における自らの立場”を“公の場で明確に”してきている」と述べ、私が「岡庭氏が公の場でまず明確にすべきことは、三浦弁護における自らの立場でしょう」と書いたことを非難した。私はたしかに岡庭氏の著作を讀む努力を怠つた。その點は反省すべきである。しかし致命的な越度だつたとは思はない。著作を讀んだところで、呉氏の根底的な批判を想定した「自らの立場」が説明してある可能性はまづ皆無だからだ。それは岡庭氏が最初の投稿で呉氏に論理的に反駁せず、ただヒステリックな罵詈雜言ばかりを竝べたてたことを見ても想像がつく。だからこそ私は岡庭氏に對し、呉氏の批判を踏まへた「自らの立場」を「噂の眞相」投稿欄(=「公の場」)で明らかにするやう求めたのである。現在進行中の論爭の場で具體的な反論を示さず、「他の著作や雜誌にもう書いた」とだけ言つても、説得力はない。

呉氏は岡庭氏を「バカ」と罵倒したが、それは呉氏なりに筋道立てた(そして私にも正しいと思はれる)論證を經たうへでの結論である。「バカ」は論理的思考能力の缺如を端的に示す言葉であるから、珍妙な理屈を振りかざす人間を「バカ」と呼ぶことは正しい。だが、何の論證もせず「顏が貧しい」だの「オカマ」だのと相手を侮辱することには、いかなる正當性も存在しない。

以上のやうな岡庭氏に對する反論は、當時は結局書かず仕舞ひであつた。岡庭氏から「読んでいないものをなぜ論じられるか」と痛いところを衝かれ、いまさら「實は立讀みで讀みました」と言ひ出せなかつたのと、岡庭氏の劍幕に恐れをなして戰闘意欲を喪失したといふのが正直なところである。今ごろになつてこんな場所に反論を書くのは卑怯かもしれないが、岡庭氏自身が「木村貴氏への質問」と書いたのだから、十三年ぶりの「囘答」として御容赦願ひたい。もし岡庭氏がこの文章をお讀みになつたならば、どうか再反撃して頂きたいと思ふ。

呉智英氏は「噂の眞相」における論爭の顛末を、單行本『バカにつける薬』に書いた。そこには岡庭氏や私の文章も再録されてゐる。『バカにつける薬』の單行本が双葉社から發賣されたのは1989年1月である。すでに社會人となつてゐた私は、東京・神田驛前の書店で久しぶりの呉氏の新刊を見つけて買つた。さうして、「オールナイターズ」の裏番組になつた講演會の話とともに、「噂の眞相」への投稿が載つてゐるのを發見した。だから『バカにつける薬』は呉氏の著作の中でも最も思ひ出深い本の一つである。しかし單行本は今手許にない。「本はどんどん處分せよ」といふ呉氏の教へに忠實に從ひ、文庫版を購入した後で古本屋に賣つてしまつたからである。當時の「噂の眞相」は、自分の投稿が載つた號も含め、とつくに捨ててしまつた。すなはち以上の文章中の引用は、すべて『バカにつける薬』(双葉文庫版)を參照して書き寫したものである。投稿を著作に再録してくださつた呉氏に厚く感謝致します。

追記:『バカにつける薬』(双葉文庫版)で『金魂巻』が誤つて『金塊巻』となつてゐるのを發見。上の文章では「魂」に改めた。(ここまで2000年8月13日)
追記二:その後帰郷した際、家の本棚で當時の「噂の眞相」を發見した。捨てたと思つたのは勘違ひだつたのである。(2004年4月29日)
(初出「地獄の箴言」。表現・表記を一部修正)

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