國家は教育から手を引け(W・フンボルト)

人間の真の目的は〔略〕人間の持つ諸力を最高にしかも最も調和のとれた一つの全体へと陶冶することである。この陶冶の為に自由は、第一の不可欠な条件である。


ヴィルヘルム・フォン・フンボルト『国家活動の限界を確定せんがための試論』より。保守系の「新しい歴史教科書をつくる会」がかかはつた歴史と公民の中學教科書採用をめぐり、各地でまたぞろごたごたが起こつてゐる。しかし教科書の良し惡しなどより、もつと大きな問題が忘れられたままだ。そもそも政府が教育にかかはるのは正しいことなのだらうか。教科書檢定や學習指導要領など必要なのだらうか。いや、もつと言へば、公立學校はなくてはならないものなのだらうか。

ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)はドイツの文獻學者・言語學者。弟のアレクサンダー・フォン・フンボルトも著名な博物學者だ。『国家活動の限界を確定せんがための試論』は死後の1851年に刊行され、『自由論』を執筆中だつた英國ジョン・スチュワート・ミルにも影響を及ぼしたといはれる。

フンボルトが『試論』で主張したのは、今風の言葉でいへば「小さな政府」のすすめだ。「小さな政府」といふと、多くの人は郵政民營化や農業自由化などを聯想することだらうが、フンボルトが主張の根據としたのは、さうした經濟的議論ではない。「人間の真の目的」である人格の「陶冶」。それを達成するための「第一の不可欠な条件」が、政府からの自由だといふのだ。

なぜ人格の陶冶に自由が必要なのか。それは自身の決斷にもとづく行動のみを通じて、人間は自分を鍛へることができるからだ。もしどのやうに行動すべきかを國家が決定することになれば、人間を「不活発で、怠惰で、常に他人の知識や意思に依存する状態にしてしまう」。

ここからフンボルトは、教育について驚くべき見解を示す。公教育は國家の安定を目的とし、市民・臣民の育成を目指す。しかしこれは個人の人格育成には役に立たないどころか、有害ですらある。個人の育成は私教育によらねばならない。教育にとつて「国家は不要なのだ」。

續けてフンボルトは一氣に述べたてる。

自由な人間の下で全ての職業はより良く進展するし、全ての芸術はより美しく開花するし、全ての学問は発展する。自由な人間の下では家族の絆もより親密になるし、両親はより熱心に子供の世話をして、より裕福になり、子供の希望に応じることが出来るようにもなる。自由な人間の下では、熱心に見習うといったことが生じる、そして教師の運命が国家によって期待出来る昇進よりも仕事の成果に依存しているところでは、より良い教師が育つ。

最後のくだりは、教職における「成果主義」のすすめであり、日教組の先生たちが讀んだらさぞ憤慨することだらう。だがこのラディカルな文章を書いたのは、「新自由主義」を信奉する現代米國の無教養な(?)エコノミストではない。文學者のゲーテやシラーとも交流があつた、十九世紀ドイツの代表的な人文學者なのだ。

フンボルトの徹底した教養主義は、左翼の教育活動家だけでなく、國家による、國家のための教育を疑はない右翼にも理解不能だらう。數學者の藤原正彦は作家、阿川弘之との對談でかう語つてゐる。

小学校では「個」より「公」に尽くせと教えたほうが、ずっと個性的で面白い人間が増えるでしょう。(新潮文庫『日本人の矜持』、248頁)

もちろんフンボルトが聞けば、「公」に盡くせとは國家に都合のよい人間になれといふことであり、そのやうな教育で個性の伸長も人格の陶冶もできないと斷言することだらう。
リバタリアニズムの人間観―ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに見るドイツ的教養の法哲学的展開
フンボルトは一時、公教育否定の信念を曲げ、政府の一員としてベルリン大學の創設に携はるが、自由主義的な信條が反動勢力の不興を買ひ、公職辭任に追ひこまれる。おそらくフンボルトは甘かつたのだらう。しかし人間は自分自身が決斷した行動によつてのみ人格的に成長できると信じたフンボルトにとつて、決して後悔すべき經驗ではなかつたに違ひない。

(註)フンボルトの文章はすべて、吉永圭『リバタリアニズムの人間観――ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに見るドイツ的教養の法哲学的展開』(風行社、2009年)より再引用。表現を一部改めた。

英譯

The true end of Man, or that which is prescribed by the eternal and immutable dictates of reason, and not suggested by vague and transient desires, is the highest and most harmonious development of his powers to a complete and consistent whole. Freedom is the grand and indispensable condition which the possibility of such a development presupposes;

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