『新オーストリア学派とその論敵』

ホメロスの敍事詩『オデュッセイア』は英語でOdyssey(オデッセイ)だが、小文字のodysseyになると「長い放浪」「遍歴」といふ意味の普通名詞として使はれる。日本の經濟學者で、越後和典氏ほどこの言葉に似つかはしい知的人生を送つてきた人はゐないだらう。
新オーストリア学派とその論敵
1927年(昭和2年)生まれの越後氏は、1950年に京大卒業後、マルクス經濟學者として研究者の道を歩み始めたが、やがてマルクス主義に疑問を感じ、60〜70年代にJ・S・ベインに代表される産業組織論の研究に轉じる。日本におけるこの學問の草分けとなり、學識經驗者として政府の獨占禁止政策にもかかはるが、ここでもしだいに産業組織論が依據する新古典派經濟學の市場理論に疑問を抱くやうになる。既成理論の缺陷を克服する道を探るうち、新オーストリア學派の所説こそがその目的達成に有效だと確信するにいたり、70年代後半から同學派の研究に本腰を入れ、85年には同學派の競爭理論をもとに産業組織論を批判した『競争と独占』を上梓する。

その後越後氏は、貨幣論や國家論の領域にまで新オーストリア學派の研究をひろげる。十九世紀後半、ウィーン大のメンガーが創始した經濟學派をオーストリア學派といい、このうち新オーストリア學派とは、ナチスの臺頭を避けて米國に移住したミーゼスおよび彼の教へ子世代以降を指す。ミーゼスの高弟であるハイエクノーベル賞を受けたことで知名度が高く、全集も邦譯されてゐるが、ロスバードホッペといつた若い世代になると、アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)と呼ばれるそのラディカルな主張が敬遠されることもあつてか、日本ではほとんど知られてゐないのが實情だらう。

さうしたなか越後氏は2003年、『新オーストリア学派の思想と理論』を出版する。すでに教職を退いた七十六歳の年である。この本は同學派の思想を初めてまとまつた形で日本に紹介した劃期的なものだ。じつは越後氏は七十歳頃から體調を崩し、ほとんど十年間、滿足に研究・執筆ができなかつた。同書に收めた文章のほとんどは、健康を害する以前に書かれた論文である。

だが越後氏の知的探究心は衰へなかつた。八十歳近くになつてやうやく小康を得たのを機に、2006年から2010年にかけ、かつて奉職した滋賀大經濟學部の『彦根論叢』に、新オーストリア學派についての論文を相次いで寄稿する。それらをまとめ、さらに、米國自由主義思想に強い影響を及ぼし、ミーゼスとも親交があった女性作家、アイン・ランドに關する書き下ろしの論考を加へたのが、今囘刊行された『新オーストリア学派とその論敵』(慧文社)である。

書名が示すとほり、越後氏は同書で、マルクスケインズカール・ポランニーら、人々の自由を妨碍しようとするさまざまな立場の思想家を取り上げ、新オーストリア學派の理論にもとづく根源的な批判を紹介してゐる。話題は狹義の經濟學にとどまらず、國家論、戰爭論にも及ぶ。越後氏の文章は、研究對象であるロスバードやホッペらと同樣、すぐれて明晰かつ論理的であり、主流派經濟學につきものの、いたづらに讀みにくいばかりの數式や記號は一切出てこない。およそ思想や社會問題に興味のある讀者なら、すばらしい知的亢奮が味はへるはずだ。

越後氏は「はしがき」で、自らの知的遍歴に思ひを馳せながら、かう綴つてゐる。

顧みて本書には結論を保留したり検討を尽くしていない箇所も残ってはいるが、紆余曲折を極めた私の六十年間に及ぶ研究生活の晩年に自得した知見の核心部分は、概ねこれを本書に書き込んだつもりである。この故に私は、ささやかながらも自分に出来る限りの仕事を漸く成し終えたと実感している次第である。

越後氏は本書を最後として「新オーストリア学派関係の著作の筆を折る」と書いてゐる。それは讀者として殘念だが、今後、研究者・教育者としての人生を振り返る著作の計劃があるともうかがつてゐる。きつと興味深いオデッセイを讀むことができるだらう。

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