松本清張「西郷札」――通貨強制がもたらす悲劇

肩のこらない短い物語が讀みたくなつて、光文社文庫の『松本清張短編全集』第一卷を買つてきた。冒頭に收められたのは昭和二十六年のデビュー作「西郷札」である。松本清張といへば推理物だから、歴史物らしいこの作品はこれまで敬遠してゐたが、せつかくなので今囘初めて讀んでみた。面白い。世界的な財政危機をきつかけに、カネが紙くずになるとはどういふことかに關心をもつ人が増えてゐると思ふが、さういふ人にはとくにおすすめだ。
西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)
西郷札(さいごうさつ)とは、明治十年の西南戰爭に際し、西郷隆盛率ゐる薩軍が發行した紙幣のことだ。薩軍が熊本で官軍に敗れ、宮崎まで撤退したところで、近在の商人や農家から物資を調達するため發行した。十圓、五圓、一圓、五十錢、二十錢、十錢の六種があつたが、十錢、二十錢札はともかく、五圓、十圓といふ高額札になると、皆それを受け取ることを澁つたといふ。それはさうだらう。敗色濃厚な薩軍が發行元のうへ、金や銀と引き換へることのできない不換紙幣だつたのだから。下手をすると紙くずになつてしまふ(實際さうなつた)。

そこで薩軍はどうしたか。「半分は威嚇でこれがどんどん商人たちに押しつけられて食糧や弾薬と変わった。ついには兵士たちは隊を組んで富裕な商家を訪れ、僅かな買物に十円札を出し、太政官札〔明治政府の發行する紙幣〕のつり銭を受け取るという手段をとった」。なんだかコンビニで僞の一萬圓札を出して百五十圓の菓子を買ひ、つり錢を受け取つて逃げた犯人と、やつてゐることはほとんど變はらない。違ふのは、コンビニで僞札を使ふ人物はそれが犯罪だと自覺してゐるが、薩軍には罪の意識などないどころか、むしろ正義を實現するために必要な正しい行爲と信じてゐた點だらう。

ある藝妓は、西郷隆盛の腹心である桐野利秋から四百圓分の西郷札を受け取り、以前からあつた同額の借金の返濟に充てようとした。貸主が「イヤ此札では」と澁つたところ、「あなたそんなことが桐野さんに知れましたら人切り庖丁の御馳走がまいりませうぞ」と脅しつけられ、使ひものにならぬ札と知りながら、仕方なく支拂ひを認めたといふ。「人斬り半次郎」と恐れられた桐野利秋の名を聞かされては、大金より命が惜しくなるのも無理はない。

結局、薩軍は官軍に追撃され、深夜ひそかに山を越えて宮崎から脱出する。このときの描冩がすばらしいので書き冩しておかう。

誰も一語も発せず、黙々として、闇の中を木の根を手がかりとし、岩角を足場として登っていく。遙か眼下に官軍陣営の篝火が点々として星を連らねたように輝き、それが今まで見たことのないように美しい。

さて薩軍が宮崎から撤退すると西郷札は完全に紙くず同然となり、札を所持する商人や農家は、懸念してゐたとほり多大の損害を蒙つた。小説はこの後、元薩軍の兵士である主人公があるきつかけから西郷札の損失補填運動にかかはり、悲劇的な結末を迎へるまでを描いてゐる。明治政府は、賊軍が發行した紙幣であることを理由に、損失の補填に應じなかつたのである。

だが誤解してはならないことがある。もし明治政府が紙くずになつた西郷札を高値で買ひ上げれば、主人公たちは助かり、ハッピーエンドに見えるかもしれない。しかし經濟學的に考へれば、さうでないことはすぐわかる。政府が札を買ひ上げるのに使ふカネは、他の國民から税やインフレによつて奪つたものだ。損失は無關係な第三者に轉嫁されるにすぎない。

どのやうな通貨を使用するかは、本來人々が自由に選ぶべきことだ。その自由を否定し、政府(や内亂軍といふ小政府)が暴力・脅迫によつて特定の通貨を強制すれば、經濟的・社會的破局が待ち受ける。「西郷札」はそのやうな讀み方が可能な傑作といへる。

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