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リバタリアンは決定論を否定するか

映畫『アジャストメント』(ジョージ・ノルフィ監督、2011年)をレンタルで觀る前にユーザーレビューを眺めてゐたら、かう書かれてゐた。「運命は実はそれなりに決まっていて、それを逸脱しようとすると、『神の見えざる手』が働きますよと。それに対して、俺たちは常に自由だぁああ!運命なんかナンセンスだぁああ!という、リバタリアニズムとの対立構図があるのかもしれません」
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たしかにリバタリアニズムは運命論を肯定しない。だが別にリバタリアンでなくとも、いまどきガチガチの運命論を信じる人などほとんどゐないだらう。だからこのレビュアーの指摘はちよつとピントがずれてゐる。

ところで運命論と一見似てゐる「決定論」になると、話は少し違つてくる。決定論とは、人間の行爲はそれに先立つ出來事によつてすべて決まるといふ見方のことだ。おそらくリバタリアニズムのことを多少知つてゐる人は、リバタリアニズムは人間の自由意志を肯定する思想だから、自由意志を否定するかのやうな決定論は受けつけないと思ふのではないだらうか。實際、リバタリアニズムを「自由意志論」と譯す專門家もゐるくらゐだから、さう思つても無理はない。

しかし少なくとも、すべてのリバタリアンが決定論を否定するわけではない。むしろ決定論を強く支持するリバタリアンも存在する。經濟學者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスはその一人だ。『経済科学の根底』(村田稔雄譯、日本経済評論社、2002年)でミーゼスは次のやうに書く。人間は動物と異なり、本能の欲望を抑へる力と自己の意志を持つてゐて、兩立しがたい目的の中からあるものを選擇する。この意味において人間は自由である。しかし「この自由が宇宙とその法則から独立のものと解釈することは許されない」。續けてミーゼスはかう述べる。

人間もまた宇宙の一要素であって、万物を発生せしめた本源的Xから生じたものである。人間は、無限に連なった先祖たちから自己の生理的装置を遺伝的に受け継いでいるが、生後は諸種の肉体的精神的経験を経てきた。人間は、彼の人生――すなわち現世の旅路――のどの瞬間をとってみても、宇宙の歴史全体の一所産に外ならない。すべての行為は、それ以前のすべてによって形成された個性の不可避的な結果である。(73頁)

あたかも進化生物學者が書いたかのやうな、合理的な文章だ。ミーゼスによれば、多くの社會科學者が陷りがちな誤りは、決定論を物質的要因に限定してしまふことにある。人間は物質的要因だけでなく、理念や思想といつた精神的要因によつても動かされる。いや、正確に言へば、精神的要因も究極的には物質的要因によつて生じてゐるはずだが、私たちはそれがどのやうに起こるのかを知らない。
経済科学の根底
たとへば今この文章を書いてゐる私は、これまで多少の思想的曲折を經て、現在はリバタリアニズムを信奉してゐるが、一體どのやうな物質的要因でさうなつたのかは、私自身を含め、誰も言ひあてることはできないだらう。自然科學の知見を人間行爲の解明に役立てることには私も興味があるが、それだけで人間行爲をすべて説明しようとすることには、おそらく無理がある。

ではどうすればよいのか。ミーゼスは人間行爲を研究する學問(經濟學を含む)に自然科學の歸納的手法をあてはめることそのものが不適切であるとして、演繹的手法を提唱するのだが、長くなるので紹介は別の機會にしよう。

なほ『アジャストメント』は、テーマが運命操作といふややこしいものだけに物語の細部には粗も目立ち、レビューの點數はあまりよくないが、若手政治家役の主役マット・デイモン、戀人のダンサー役のエミリー・ブラント、「運命調整局」工作員役のベテラン怪優テレンス・スタンプの三人の演技は見事で、十分樂しめた。

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