サンデル教授、やつぱりヘンですよ

昨年のベストセラー、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍譯、早川書房)が早くも文庫本になつた。單行本が出たときに一度この本については批判を書いたが、文庫本には特別附録として、來春刊行豫定といふ最新作 What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets(直譯すると『お金で買へないもの――市場の道徳的限界』)の序章が先行收録されてゐる。これがまたひどいので、もう一度サンデル教授を斬ることにした。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
をかしなところはいくつもあるが、三つだけ舉げよう。まづサンデルは、世の中にはお金で買へないものがあるのに、現在の米國人は「ほぼあらゆるものが売買される時代に生きている」と歎く。この指摘が事實としてどこまで當たつてゐるかはここでは措かう。問題は次だ。

すべてが売り物となる社会では、貧しい人間のほうが生きていくのが大変だ。……政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流校への入学など――がお金で買えるようになるにつれ、収入や富の分配の問題はいやがうえにも大きくなる。(462-463頁)

たしかに市場經濟の下では、金錢を多く持つてゐるはうが欲しいものを手に入れるうへで有利だらう。だがそれでは、すぐれた醫療、安全な住宅、一流の教育といつたサービスを市場でなく政府が供給すれば、問題は改善するだらうか。もちろん答へはノーだ。

これらのサービスがどこからか無盡藏に湧いてでもこない限り、社會のメンバー全員が、おのおの滿足できる分だけ手に入れるのは物理的に不可能だ。もし政府が市場に取つて替はつても、限りあるサービスを何らかの方法で分配しなければならない。政府は權力によつて分配をおこなふから、權力を持つ者、權力者に親しい者が有利になる。これでは社會の不平等や「分配の問題」が改善したとはいへない。
サンデル教授、ちょっと変ですよ――リバタリアンの書評集 2010-12〈政治・社会編〉 (自由叢書)
しかも實際には、政府による分配は市場經濟にない害惡を及ぼす。市場經濟では個人や企業が自己の利益の増大を求め、絶えずすぐれたサービスの供給に努めるが、政府の下ではさうした動機が働かない。このため分配すべきサービスの量が減り、質が惡くなる。これは政府の規制が強いサービスほど供給が不足し、質が劣惡なことからも明らかだらう。皮肉なことに、貧しい人間が手に入れにくいサービスとしてサンデルが舉げてゐる醫療、住宅、教育は、いづれも典型的な規制産業だ。貧しい者を苦しめてゐるのは市場でなく、じつは政府であることを、サンデルはそれとは氣づかずみづから認めてゐるのだ。

第二に、サンデルは讀者に熱くかう訴へる。「この社会において市場が演じる役割を考え直す必要がある。市場をあるべき場所にとどめておくとはどういうことかについて、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。お金で買うべきでないものが存在するかどうかを問う必要がある」(461頁)。議論、大いに結構。サンデルと私のやうなリバタリアンとでは議論の方向は百八十度異なるだらうが、議論することそれ自體に何の異論もない。問題はそのあとだ。

市場の道徳的限界をめぐる議論をすれば、市場が公共善について役立つ場合とそぐわない場合を、社会として決めることができるだろう。(471頁)

いつたいなぜ、何が金錢で買つてよいもので、何が買つてはいけないものかなどといふことを、「社会として決める」必要があるのだらうか。それは個人がそれぞれ道徳的に判斷し、實踐すればよい、いや、しなければならない問題だ。その結果、普通の人から見れば眉をひそめるやうな行ひや、奇矯な振る舞ひをする者がゐたとしても、他人の權利を侵害しない限り、何の不都合もない。むしろ私には、そのやうな社會こそ眞に道徳的な社會だと思へる。
自由市場の道徳性―オーストリア学派の政治経済学
「議論する」「考え抜く」などといへばいかにも哲學者らしくて格好よいが、結局のところサンデルにとつてそれらの議論や思考は、政治の力によつて他人の不快な振る舞ひを壓殺するための準備にすぎないのだ。

最後に、サンデルは「生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが堕落してしまうおそれがある」(463頁)と憤る。それなら一つお願ひがある。來春出版されるこの最新作、ぜひタダにしてもらひたい。本は私にとつて、生きていくうへで非常に大切なものだからだ。そのやうに大切なものに値段がつけられ墮落するのを、私は見たくない。サンデル教授もきつと同感だらう。

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