理論武裝にスキあり――藤沢数希『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門』

ブログ「金融日記」で知られる藤沢数希氏の新刊『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門――もう代案はありません』(ダイヤモンド社、2011年)は好著だ。おそらく最近出版された日本人著者による經濟本のなかで、これほど徹底して市場經濟・資本主義を擁護したものは他にないだらう。ただし全般にすぐれた本であるだけに、いくつかの重要な缺點がかへつて目立つのが惜しい。
日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門 もう代案はありません
締めくくりの第5章で舉げられてゐる政策提言は、そのほとんどに私も賛成だ。細かいことをいへば、以前書いたやうに、フラット課税で税負擔が輕くなるとは必ずしもいへないし、教育バウチャーは教育を政府から解放するのでなく、逆に縛りつけるしくみなので支持できない。別の章の記述だが、「日米同盟を大切にして、アメリカの核の傘に入り続ける」(160頁)ことが日本の安全に役立つとも思はない。しかしその他の多くの提言、とくに「解雇自由化で労働市場を効率的にする」「日本には株主資本主義こそが必要」「関税すべてゼロ、農業補助金ゼロ、農業の完全自由化を」などには完全に同意できる。

このやうに結論は高く評價できるのだが、經濟のしくみを解説した途中の章に筋の通らない部分が何カ所かある。あとで述べるやうに、これらの誤りをすべて藤沢氏だけの責任に歸すわけにはいかないのだが、本書が「経済学入門」をうたつてゐることを考へると、輕視できない。三點だけ指摘しよう。

その一。日銀や世界の中央銀行は、金利の誘導目標を短期金利(大手金融機關同士の一日だけの貸し借りの金利)に限定し、長期金利(國債や社債の利囘り)は直接操作の對象としてゐない。その理由を藤沢氏は「市場原理(マーケット・メカニズム)を最大限に働かせるため」(96頁)と説明する。そして「日銀も世界の中央銀行もマーケット・メカニズムを極めて重視しています」といふ。

政府のさまざまな役所は市場原理を無視して經濟に介入してばかりゐるのに、なぜか中央銀行だけが市場原理を「極めて重視している」とは奇妙だと藤沢氏は思はないのだらうか。實際には、中央銀行短期金利を規制することにより、長期金利も實質的に操作してゐる。そのからくりは藤沢氏自身がすぐ前の頁に書いてゐる。「短期金利長期金利は密接に関係していて、中央銀行短期金利を動かすと、長期金利も通常は同じ方向に動くわけです」(95頁)。もし中央銀行長期金利の形成に市場原理を最大限働かせたいと考へてゐるのであれば、それに大きな影響を及ぼす短期金利を操作するはずがない。

その二。藤沢氏は市場がうまく機能せず、政府による獨占や規制が正當化されるケースとして「規模の経済と独占企業」「外部不経済」「公共財の提供」「情報の非対称性」の四項目を舉げる(41頁)。だがこれらのいはゆる「市場の失敗」はいづれも一種の神話であつて、合理的な根據に乏しい。 たとへば公共財とは民間企業によるサービス提供がむづかしいとされるモノやサービスをいい、一例として藤沢氏は燈臺を舉げてゐるが、ロナルド・コースが『企業・市場・法』の第7章で指摘するやうに、昔、燈臺は民間によつて運營されてゐた。
企業・市場・法
また情報の非対称性とは、モノやサービスを賣る側が買ふ側に對して壓倒的に多くの情報を持つ不公平な状態を指し、この状態にあると自由な市場はうまく機能しないといふ。だがたとへば、私が古本を買ふのによく利用するアマゾンの「マーケットプレイス」は、買ふ前に本の状態を見て確かめることはできず、買ひ手はきはめて「不公平な状態」に置かれるけれども、多くの人に活用されてゐる。要するに情報の非対称性とは、程度の差はあれ、およそあらゆる取引につきまとふ現象であり、にもかかはらず市場は十分に機能するのだ。品質が事前によくわからない代表的なサービスは勞働だから、もし藤沢氏が情報の非対称性をそれほど氣にかけるのであれば、勞働市場の自由化を主張するのはをかしいといふ話になつてしまふ。

その三。世の中に出囘るお金の總量は、經濟規模が大きくなればどんどん増やしていかなければならないと藤沢氏はいふ(79頁)。そんなことはない。經濟が爆發的に發展した産業革命の時代、先進國では金貨やそれを裏づけとした紙幣を使つてをり、印刷機を囘せば好きなだけお金を生み出せる現在と違ひ、お金の總量の増え方は非常に緩やかだつた。中央銀行が人爲的にお金をどんどん増やさなければならない理由はない。

以上指摘したものを含め、本書における藤沢氏の誤りの多くは、じつは一般的な經濟學の教科書に書かれてゐるのと同じものだ。つまり現代の「グローバル・スタンダード」とされる主流派經濟學そのものの誤りなのである。市場經濟をより效果的に擁護するため、藤沢氏は教科書の解説を鵜呑みにせず、隙のない強力な理論武裝をしてもらひたい。

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