闇金融は惡くない

真鍋昌平のマンガ『闇金ウシジマくん』の最新刊、第23卷(小学館、2011年)で中心人物となる高田は、丑嶋社長率ゐる闇金融業「カウカウファイナンス」に勤める前、ホストクラブでホストとして働いてゐた。ホストをやめたきつかけは、客の一人だつた未成年の女性、愛華が自殺したことだ。高田は熱心に貢いでくれる愛華と一時親密につきあつてゐたが、ホストとして人氣が出るにつれ、一途な愛華をうつとうしく感じるやうになり、やがて冷たく突き放す。絶望した愛華は死ぬ。高田は深く後悔し、ホスト業界を去つた今も、時おり愛華の幻を見る。
闇金ウシジマくん 23 (ビッグコミックス)
だが高田は今の金融屋といふ仕事に生きがひを見いだしてゐる。ホスト時代の仲間から「犯罪者のくせに」と言はれ、かう答へる。「俺達は犯罪者だ。だが今、本当に金が必要だけど誰からも借りられない人間が、最後に頼る他人なんだよ」。高田がみづからを「犯罪者」と呼ぶのは、闇金融が政府に貸金業としての登録をしてゐないか、登録してゐても違法な高金利を取る業者だからだ。けれども高田が職業としてやつてゐることは、道徳に照らして、本當に惡いことなのだらうか。

リバタリアンの經濟學者、ウォルター・ブロックは『不道徳な経済学』(橘玲譯、講談社プラスアルファ文庫、2011年)で、闇金融について以下のやうに擁護の論陣を張つてゐる。まづ忘れてならないのは、金貸しは金を借りるやう客に強制するわけではないし、客はいつでも金貸しの申し出を斷ることができるといふことだ。金の貸し借りが成立するのは、客と金貸しが納得づくで合意したときだけである。その意味で、他の商賣となんら變はりはない。もちろん世の中にはひどい金貸しもゐるが、だからといつて職業そのものを非難していいといふことにはならない。「ひどい奴というのは、どこにだっているのだから」(190頁)

闇金融は「トイチ」(十日で一割の利息。年利365%)「トゴ」(十日で五割の利息。年利1825%)といつた、法律の上限を超えた高い金利を取り、不公正な金利だとしてしばしば非難を浴びる。だがブロックはかう反論する。公正な金利などといふものは、「適正な價格」同樣、どこにもありはしない。もしどうしても「公正な金利」を決めたいのであれば、それは「二人の大人が合意のもとに取り決めた金利」としか言ひやうがない。つまり闇であれなんであれ、當事者同士が合意した以上、それは公正な金利なのである。

だから「お金はきっと返します」と約束しておいて、そのあとで借金を踏み倒す客を「被害者」と呼ぶのは不適當であるとブロックは言ふ。この場合、眞の「被害者」は金貸しの方である。もしも利息だけでなく元本すら返つてこなければ、金貸しのおかれた状況は泥棒にあつたのと同じである。契約に基づいて金を借り、返濟を拒否するのは「金貸しの事務所に押し入って金を奪うのとなんのちがいもない」(191頁)

また闇金融がしばしばヤクザと手を組み、貸し金の囘收に暴力を振るふことも非難の對象となる。だがこれは法律で高利貸しを禁じ、借金の踏み倒しを認めるから起こる現象だ。裁判所が債務者に借金の返濟を命じてくれなければ、ヤクザに頼むしかなくなる。高利貸しに限らず、麻藥、ギャンブル、賣春、禁酒法時代の酒など、一定の需要が存在するにもかかはらず國家が法で禁止した商品は、まともな會社が手を出せないのだから、非合法組織が一手に扱ふしかない。ブロックは言ふ。これらの「違法」商品が本質的に犯罪的なのではない。「国家による法的禁止が、まともな商売をヤクザの独占市場に変えるのだ」(同)

そればかりでない。貧乏人を高利貸しから保護するためと稱して、利息制限法などの法律で金利の上限を規制すると、むしろ「貧乏人に災難を、金持ちに利益をもたらす」(195頁)。なぜならそれまで貧乏人相手に商賣をしてゐた金貸しが、より確實に稼げる金持ち相手の商賣に鞍替へしてしまふからだ。金持ち向けの市場にすべての金貸しが殺到するのだから、需要と供給の法則で、金持ちはこれまでよりずつと有利な條件で融資を受けることができるやうになり、一方で、貧乏人はまつたくお金を借りることができなくなつてしまふ。
不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社+α文庫)
闇金ウシジマくん』の高田は、これからも愛華の死を精神的な十字架として背負ひつづけるのだらう。だが闇金融といふ仕事を恥ぢる必要はまつたくない。恥づべきなのは、金利を制限することによつて結果的に弱者を苦しめてゐるにもかかはらず、僞善的な法規制をやめようとしない政府の方なのだ。

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