読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『刑事コロンボ』はなぜ(リバタリアンにも)面白いか

主演のピーター・フォークが昨年死去したのをきつかけに、テレビドラマ『刑事コロンボ』の「舊シリーズ」全四十五話をレンタルDVDで半年ほどかけて觀た。子供の頃NHKでよく觀たが、すべて觀たのはこれが初めてだ。話によつて多少の出來不出來はあるものの、やはり面白い。四十年經つても色あせない推理ドラマを大いに樂しんだ。なかでもお氣に入りは「二枚のドガの絵」「死の方程式」「祝砲の挽歌」「忘れられたスター」「魔術師の幻想」「殺しの序曲」などである。
刑事コロンボ完全版 DVD-SET 1 【ユニバーサルTVシリーズ スペシャル・プライス】
さて推理ドラマといへば、推理小説(探偵小説)が大衆に人氣のある理由について、リバタリアンの經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが The Anti-Capitalistic Mentality(『反資本主義の精神構造』、1954年、未邦譯)といふ本の中で以下のやうに興味深いことを書いてゐる。

第一次世界大戰が終はつた1918年から第二次世界大戰が始まる1939年までの約二十年間は、探偵小説の黄金時代といはれるが、この時期は過激な反資本主義の風潮が強まつた時代でもあつた。探偵小説の本場であつた英國では、社會主義政黨の勞働黨が1924年に初めて政權をとつてゐる。當時人氣を誇つた探偵小説作家の一人、G・D・コールは社會主義を奉じる經濟學者でもあり、のちに勞働黨の母體であるフェビアン協會の理事長を務めた。かうした時代背景が探偵小説の書き方や讀まれ方に濃い影を落としてゐる。

典型的な探偵小説の筋はかうだ。だれもが尊敬し、およそ卑しい行爲とは無縁にしか見えない人物が言語道斷の犯罪に手を染める。まさかこの人物が犯人だとは、だれも疑はない。だが賢い探偵はだまされない。探偵はさうした聖人ぶつた僞善者について知り盡くしてをり、犯人を有罪とするのに必要な證據をすべて集める。探偵のおかげで、つひに正義は勝つ。

尊敬すべき市民を裝つた惡黨の假面を剥ぐといふ筋立ては、反資本主義の風潮を背景に、當時は探偵小説以外の「高級文學」でもよく見られた。資本主義社會で成功を收められない人々はひそかに、自分が失敗したのは正直で法を遵守するからであり、成功した連中は不誠實な行爲を働いたと考へてゐる。小説の探偵は、「ブルジョア」に對するさうした潛在的な恨みを代はりに晴らしてくれる。もちろん探偵小説が好まれる理由は他にもあるが、人氣の一因はそこにあるとミーゼスは指摘するのである。
ヒューマン・アクション―人間行為の経済学
たしかにミーゼスが言ふやうに、資本家や金持ちへの敵意を煽るやうな推理小説やドラマは、いまでも少なくない。さうした小説やドラマをたまたま目にすると、資本主義を斷乎擁護するリバタリアンとしては氣分を害されること甚だしい。

ご存じの方も多いと思ふが、『コロンボ』に登場する殺人犯は、資本主義の總本山である米國で經濟的・社會的成功を收めた、まさしく繪に描いたやうな名士ばかりだ。しかも一方の探偵役は、犯人とは對照的にさへない身なりをした政府職員(ロサンゼルス市警警部)である。「資本主義は惡、政府は正義」といふイデオロギーを喧傳しようと思へば、これほどうつてつけの設定はないだらう。

ところが意外にも、『コロンボ』にさうした政治主義の臭ひはほとんどしない。なぜか。それはこのドラマが犯人をブルジョア階級の單なる象徴としてではなく、あくまでひとりの個人として描いてゐるからだ。

財産、名譽、復讐など理由はさまざまだが、犯人は殺人をひそかに決心する。まれに共犯の場合もあるものの、基本的には單獨犯で、孤獨のうちに、持てるすべての知力と行動力を動員し、犯行に及ぶ。だが首尾よく終へてほつとしたのもつかの間、コロンボといふ異樣にしつこく、勘の鋭い刑事が現れ、今度は演技力も發揮してこれと渡り合はねばならない。視聽者に最初から犯人を明かす「倒敍形式」をとつてゐるので、かうした殺人犯の緊張、安堵、焦躁、そして最後の諦めまで、全篇を通しじつくりと描かれる。思はず犯人に感情移入し、肩入れしたくなる場合すらあるほどだ。もしブルジョアを紋切型の惡として描くのが目的なら、こんな演出はしないだらう。

劇中のコロンボの言動からも、犯人と人間として正面から向かひ合つてゐる樣子が傳はつてくる。コロンボが憎むのはあくまで殺人犯個人であり、金持ち全般や資本主義の「責任」をほのめかすことは決してない。むしろ犯人が企業家、藝術家、研究者などとして生みだす成果に素直に感歎するのである。
別冊宝島 『刑事コロンボ完全捜査記録』 (別冊宝島 (1330))
コロンボ自身、さうした人間觀を「死者のメッセージ」のスピーチの場面で次のやうに明確に述べてゐる。

私は人間が大好きです。いままで出會つた殺人犯の何人かさへ好きになつたほどで、ときには好意を持ち、尊敬さへしました。やつたことにぢやあありません。殺しは惡いに決まつてゐます。しかし犯人の知性の豐かさや、ユーモア、人柄にです。だれにでもいいところはあるのです。ほんのちよつとでもね。

さうさう、最後にもう一つだけ。『コロンボ』の殺人犯は皆、惡事を働いてゐるといふ自覺がある。正義をおこなつてゐるつもりで何萬人もの他人を死地に追ひやる政治家などより人間としてはるかに救ひがあると、ミーゼスも言ふのではないだらうか。

(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)

<こちらもどうぞ>