読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

相場觀と正義感の物語――『世紀の空売り』

マイケル・ルイスの新刊『ブーメラン』がベストセラーになつてゐる。それに刺戟されてか、二年前に出た前著『世紀の空売り』(東江一紀譯、文藝春秋)がまた賣れ始めてゐるやうだ。『ブーメラン』も面白さうなのでいづれ讀んで感想を書きたいが、この機會にまづ、『世紀の空売り』のすばらしさを紹介しておかう。
世紀の空売り
同書は「世界経済の破綻に賭けた男たち」といふ副題が示すとほり、二〇〇八年のリーマン・ショックに先立つ米國の住宅バブルのさなか、金融危機を豫想した一握りの投資家が、いかにして政府や中央銀行投資銀行、格附會社が演出する虚構の好景氣の裏をかき、大相場を張つて巨額の利益を得たかを描いてゐる。

バブル崩潰を見拔いて利益をあげた投資家としてはジョン・ポールソンが一躍有名となつたが、『世紀の空売り』の主役たちは、ポールソンよりさらに無名で、かつ風變はりな人物ばかりだ。そのひとり、スティーヴ・アイズマンは若いころ企業内辯護士だつたが、「弁護士でいる自分が、いやでたまらな」くなり、兩親の勤めるウォール街の小さな證劵會社にコネで轉職。株式アナリストとして「波風を立てること、総意に歯向かうことに特別の才能を発揮するようになる」。業界の不文律にお構ひなく自分の擔當する會社の株に「賣り」の評價をつけるなど序の口で、ある經營者が催した晝食會では「数十人の投資家たちを前に、いかにこの経営者氏が自社の事業を把握できていないかをとうとうとまくしたて、そのあと中座して、二度と席に戻らなかった」(25頁)。

もうひとりのマイケル・バーリも劣らず變はつてゐる。ヘッジファンドを興すまでは醫者で、「金融学や会計学の授業を受けたことはなく、ましてウォール街の金融機関に勤めたこともない」。幼いころ手術で左の眼球を剔出し、義眼で暮らすやうになつたバーリは、おとなたちから人と話すときは相手の目を見るやうに言はれるが、義眼のせゐでうまくいかない。對人關係を苦手とするやうになり「二十代後半までには、友だちのできないタイプの人間だという自覚を得るに至った」。のちにアスペルガー症候群を患つてゐることがわかる。だがさうした資質にはプラス面もあり「集中して学ぶことにかけては、途方もない能力を発揮した」。病院の仕事のかたはら、獨學した株式投資で成果を收め、つひに運用の道で生きることを決意する。「資産をうまく運用すれば、生涯の生活が保証されますし、自分がどういう人間と見られているかを気にする必要もなくなります」(73頁)

かれらは政府や大手投資銀行が後押しするサブプライム金融を詳しく調べるにつれ「必ず粉々に吹っ飛ぶ」(アイズマン)といふ確信を抱くが、「いつ、どうやって吹っ飛ぶか」まではわからない。住宅バブルがはじければ多額の利益の出るクレジット・デフォルト・スワップCDS)をひそかに買ひ集めたものの、案に反してなかなかバブルに衰へる兆しが見えず、資金を預けた顧客たちから、そんな投資はやめろと壓力を受けたこともあつた。

それを跳ね返したのは、ひとつには論理に裏づけられた相場觀への自信だ。バーリは投資方針に異を唱へたある顧客からの電子メールにかう返信した。「わたしは〔略〕二、三年後より向こうを見通せる力がなくてはならないと、固く信じています。……たとえ皆さんから不満の声を浴びようと、基礎的条件の告げる道筋を踏みはずすわけにはいかないのです」(98頁)。バーリは、國家規模で住宅價格がバブルに陷る兆候はないと請け合つたグリーンスパン聯邦準備制度理事會議長の發言を「たわごと」と斬つて捨ててもゐる。アップルのスティーヴ・ジョブズがさうだつたやうに、多數の意見や權威に屈せず、あくまで自分の信念を貫く獨立獨歩の精神は、優れた企業家に缺かせないものだ。

しかしもうひとつ見逃してならないのは、かれらの正義感だ。若いころ熱心な共和黨右派支持者だつたアイズマンは、サブプライム住宅ローンが「詐欺そのもの」であることを知り、かう憤る。「保守的な共和党支持者は、人が他人をだまして金を儲けるなんて、考えもしない」(46頁)。だがサブプライム住宅ローンは、超保守的といはれたブッシュ(子)共和黨政權の下で推進されたのである。

同じく主役のひとりであるファンド運用者、チャーリー・レドリーは大學時代に指導を受けた經濟史學者によく電話をし、サブプライムローン制度のまやかしについてことこまかに語つて聞かせたといふ。この學者はレドリーについてかう話す。「実利主義的な部分をまったく感じさせない男です。どう見ても、金で動いているわけではない。熱血漢でした。人倫上の問題だと見ていたのでしょう」(355頁)
ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる
金錢的な動機で行動することは惡くない。しかしさまざまな壓力や障碍を乘り越え、なにごとかを成し遂げるには、それだけでは足りないときもある。さうした眞理を知ることができるだけでも、『世紀の空売り』は讀む價値がある。

(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)

<こちらもどうぞ>