社會主義者ケインズ

ケインズの主著『一般理論』が山形浩生の新譯(正式な邦題は『雇用、利子、お金の一般理論』)で講談社学術文庫に入つた。すでに電子版もインターネットで公開されてゐるが、同時に手頃な紙の本として讀めるやうになつたのは、世界が財政金融危機に襲はれてゐる折だけに、朗報だ。だがそれは譯者解説で山形氏がいふやうに、この本に「危機への対策を打ち出し、経済システムの瓦解を防ぐ鍵があ」るからではない。逆に、この本こそ現在の危機をもたらした思想的な元兇であり、その主張の誤りを理解することにこそ危機克服の「鍵」があるからだ。
雇用、利子、お金の一般理論 (講談社学術文庫)
ベルリンの壁崩潰とともに舊東側諸國が破綻し、それらを思想的に支へてゐたマルクス經濟學の誤りが決定的になつた。それからおよそ二十年たつた現在、歐米の財政危機をきつかけに今度は舊西側諸國の行き詰まりが明らかになりつつあるが、その知的責任は「大きな政府」を正當化してきたケインズ經濟學にある。ケインズの誤りは、マルクスと同樣、經濟活動における自由を否定したところにある。はつきり言つてしまへば、マルクスと同じく社會主義者だつたのだ。その思想に支へられた福祉國家、軍事國家が行き詰まるのは當然である。

むろん一般的にはケインズが社會主義者だつたとは認められてゐない。本書のイントロダクションで、現代を代表するケインズ派經濟學者、ポール・クルーグマンは「ケインズは社會主義者なんかじゃなかった」と強調してゐる。なぜなら、マルクス主義では土地や工場といつた「生産手段」の國有化が革命に必須の條件とされるが、ケインズはそこまで主張してゐないからだ。

しかし本當にさうだらうか。生産手段國有化の件は後囘しにして、ケインズの主張をみてみよう。『一般理論』が出版された一九三〇年代、世界は大恐慌に見舞はれ、大量の失業者にあふれてゐた。失業はなぜ起こるのか。ケインズによれば、經濟全體に物やサービスへの需要が足りないからだ。市場經濟に任せてゐたのでは需要不足の調整はそもそもできないか、できるとしても時間がかかりすぎる。だが政府の政策なら需要をすばやく増やし、失業を減らせるといふ。

政策には大きく二つ、金融政策と財政政策がある。まづ金融政策によつて市場にお金をどんどん供給し、人々にお金を使はせ、需要を盛り上げる。なぜならケインズによれば、民間の金持ちは現金への執着心(ケインズは「流動性選好」と呼ぶ)が強く、なかなかお金を使はないからだ。だから代はりに國(中央銀行)がやる。お金がどんどん増える結果、その價値は下がるから、「金利生活者の安楽死」(498頁)をもたらす。しかしそれはよいことだ。なぜなら金利生活者、つまり金持ちは現金を抱へるばかりで消費せず、經濟を冷え込ませる迷惑な存在だからである。

だがこれはまともな考へだらうか。自由な取引によつて金錢を得てゐる限り、どんな大金持ちでも道徳的に惡いことをしたわけではない。むしろ多くの人々が求める商品やサービスを提供し、社會を豐かにしたからこそ大きな財産を得たのだ。その財産の價値を政府が勝手に破壞し、「安楽死」させてよいはずがない。金持ちを惡玉に仕立て上げ、「金利生活者」(ケインズはrentierといふフランス語を使つて嫌味な感じを出してゐる)などといふ侮蔑的なレッテルを貼るやり口は、マルクス主義者が資本家に惡の烙印を押すやり方と「專門的な細部が異なるにすぎない(It differs from the Marxist brand only in technical detail.)」と、ジャーナリストのヘンリー・ハズリットは『一般理論』の内容を逐一批判した著作(未邦譯)で述べてゐる。
日経BPクラシックス 世界一シンプルな経済学
次に財政政策では、政府が個人に代はつて投資をおこなふ。なぜならケインズに言はせれば、普通の個人はただでさへ「社会政治的雰囲気」に影響されやすく、その行動は「不安やヒステリー……腹具合や天気に対する反応」(233頁)にまで左右されてしまふからだ。それに引き換へ「国は資本財の限界効率を、長期的な視点で一般社会にとっての利益に基づいて計算できる立場にある」から「国が投資を直接まとめる責任をもっと負うべき」(235頁)であり、「いささか包括的な投資の社会化が、完全雇用に近いものを確保する唯一の手段となる」(501頁)といふ。だが政府を動かす政治家や官僚が「社会政治的雰囲気」に影響されず、「長期的な視点」で考へることのできる賢者だつたかどうか、今の財政危機を見れば明らかだらう。

さてここで、ケインズは社會主義者かといふ問ひに戻らう。リバタリアンの經濟學者ハンス・ヘルマン・ホッペは、ケインズは上記の「投資の社会化」を唱へることで「公然たる社会主義者として、その正体を現した([H]e comes out openly as a socialist.)」(譯文は越後和典『新オーストリア学派とその論敵』187頁より引用)と言ひ切る。たしかにケインズは政府に生産手段の所有までは求めてゐない。だが社會主義體制は舊ソ連のやうに生産手段を國有するタイプだけではない。ナチス(正式名稱「國家社會主義ドイツ勞働者黨」)支配下のドイツやファシスト黨支配下のイタリアのやうに、生産手段を形の上では民間に所有させたままのタイプもある。ケインズの社會主義は舊ソ連型でなく「ナチの変種、あるいはファシストのそれである(His socialism was of the Fascist or Nazi variety.)」とホッペは指摘する。
新オーストリア学派とその論敵
これは決して言ひすぎではない。なぜならケインズ自身、ナチス支配下のドイツで一九三六年に出版された『一般理論』ドイツ語版への序文で、次のやうにはっきり書いてゐるからだ。

本書が提示しようとするのは経済全体としての産出の理論です。これは自由競争とかなりのレッセフェール〔自由放任〕主義の下で生産された、一定の産出の生産と分配の理論に比べれば、全体主義国の条件にずっと適合しやすいものです。(512頁)

自分の理論が自由主義的な理論よりも「全体主義国の条件にずっと適合しやすい」と公言するとは驚く。ケインズは本文で、自分の提案を採用しても「民間の発意と責任を行使する余地は相変わらず広範に残される」(503頁)し、「効率性と自由を維持できる」(505頁)としきりに強調してゐるが、それらが表面上の取り繕ひにすぎないことは、これで明らかである。ドイツ語版序文はケインズを崇める經濟學者たちの間でめつたに話題にされず、四年前に出た岩波文庫版(間宮陽介譯)には收録されてゐないので、山形氏の譯でぜひたしかめてほしい。

金融にしろ投資にしろ、經濟活動にとつてきはめて重要な要素であり、その及ぼす影響の範圍は大きい。それらを政府の手に委ねれば、「民間の発意と責任を行使する余地」などほとんど失はれてしまふ。ケインズは「資本主義を救う」(クルーグマン)といふ名目で、社會主義を忍び込ませたのである。しかもマルクスが少なくとも究極的には、人々を抑壓する國家の廢絶をめざしたのに對し、みづからもエリート階級に屬するケインズは國家をあくまでも温存しようとした。

現在先進各國はケインズファシズム型社會主義がもたらした經濟危機に直撃されてゐるにもかかはらず、そのケインズにすがつて金融緩和や財政出動で乘り切らうとしてゐる。かうした愚行を一刻も早く終はらせるためにも、社會主義の隱れた聖典といふべき『一般理論』を讀み、批判しなければならない。

(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)

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