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ケインズ教のマインドコントロール

特別手配されてゐた元信者が相次いで逮捕されたオウム真理教は、かつて一部の智識人から好意的に評價され、それが教團の宣傳に利用された。今ではさすがにオウムの教義が肯定的に紹介されることはない。ところが經濟學の世界では、人々に害惡を及ぼす狂つた教義がいまだにまかり通り、熱心に喧傳されてゐる。その教義をケインズ經濟學といふ。
この世で一番おもしろいマクロ経済学――みんながもっと豊かになれるかもしれない16講
ケインズ經濟學の「聖典」である『雇用、利子および貨幣の一般理論』の新譯版が半年前に刊行されたのに續き、最近同じ譯者により、ケインズ經濟學を中心とするマクロ經濟學の教義をマンガで解説した米國經濟學者の本が上梓された。ヨラム・バウマン『この世で一番おもしろいマクロ経済学』(山形浩生譯、ダイヤモンド社)である。ケインズ經濟學への異論も一部紹介してはゐるが、全體としては誤れる教義の布教以外の何物でもない。現代の歪んだ經濟學では「常識」でも、じつは現實離れした教義にもとづく奇妙な記述が多數ある。三つだけ示さう。

一番目。「政府を親だと考えれば、財政政策はかなりわかりやすい」(78頁)と著者バウマンは言ふ。「不景気だと、政府は財政政策を使って経済活動を活発にしようとする……ちょうど親が発育不良の子にはもっと食べさせようとするように」。マンガに描かれた母親は痩せつぽちの男の子に「あとスプーン3杯食べましょうね。もっと大きくなれるわ」と言ひながら、食物を勸める。母親は政府、男の子は國民、食物は財政政策で支出される資金だらう。

さて、この母親は食物をどこで手に入れたのだらうか。政府が資金を得る方法は國民から取る税(國債による税の先取りや紙幣印刷による「見えない税」を含む)しかないから、この場合、男の子から取る以外にない。つまり、まるでホラー映畫のやうな話だが、優しさうな母親は、わが子から「食物」を「取り」、それをスプーンに乘せて「食べましょうね」と笑顏で勸めてゐるのだ。男の子が痩せてゐるのは發育不良によるものではなささうである。同じやうに、財政政策は國民の財産を取り上げてばらまくだけで、新たな價値を何も生み出さないばかりか、市場による適切な資源配分を歪め、社會全體を貧しくする。

二番目。「政府にとっての課題は、親と同様、〔放任と過保護の間で〕ちょうどいいバランスを見つけることだ。あまりに放任すぎてもダメ」(84頁)とバウマンは主張する。放任された國民のたとへとして、今度は太つた男の子が登場する。「うちの親は、宿題も手伝いもぼくにやらせたりしないよ。好きなだけ飴もソーダも飲み食いしていいし……歯を磨けとさえ言わないぜ!」。につこり笑ふと、口の中は蟲齒だらけである。

だが蟲齒が痛くなれば、齒醫者に行つて怖い思ひをし、それに懲りて齒を磨くやうになるだらう。そのやうな經驗と學習こそ放任主義の親が望んでゐることかもしれない。

いや、子供は馬鹿だから、正しく命令されなければ何度でも過ちを繰り返すとバウマンは言ひたいのだらう。しかしそこまで行くと、そもそも國民を子供にたとへるのがをかしい。經濟活動をおこなふ國民は大人である。何を避け、何を求めるべきかは、政府に教へてもらはなくてもわかる。ところが政府とは公平無私な知的エリートが構成するものだといふ非現實的な想定(ハーベイロードの前提)を信じるケインズにとつて、愚かな大衆が政府以上に賢明な判斷をおこなふことなどありえないのである。

三番目。バウマンはしつこく、自由放任と政府による過保護との間で「バランスを取る」ことが重要と強調する。「最終的には、政府はバランスを取る必要がある……ジャングル状態と……動物園との間で」(85頁)。マンガに描かれた自由放任のジャングルには「無法状態」と書いた札が立てられ、猛獸や人間が口々に叫ぶ。「だれも助けてはくれないぜ!」「泳げないヤツは溺れろ!」「殺るか、殺られるか!」

政府による規制の存在しない社會は、かくも殺伐として無秩序なものだらうか。さうではない可能性を示す有力な研究に、バウマン自身が別の箇所(129頁)で觸れてゐる。先週死去した米國の經濟學者、エリノア・オストロムによる漁業の研究である。それによると、政府の規制がない海でも、世界各地の漁師たちは「ダイナマイト漁法を使ったら身内から締め出す」「他の一家の縄張りで釣りをしたら釣り糸を切る」といつたルールを自然に生み出し、濫獲を防いできたといふ。オストロムはこの研究により、2009年に女性初のノーベル經濟學賞を受けた。「市場の失敗」を強調するケインズ經濟學や新古典派經濟學の教義に反して、政府のない社會は決して「無法状態」ではないのである。

教祖ケインズは、自由放任が長い目でみて最善だといふアダム・スミスらの見解を「長期的には、我々はみな死んでいる」(10頁)とあざ笑ひ、短期的な經濟安定のためには政府が積極的に介入せよと説いて政治家を喜ばせた。その結果、日米歐で巨額の政府債務が積み上がり、むしろ經濟の不安定をもたらした。こんな状況になつても、「今こそ財政出動を」などと主張する聲が絶えないのだから、正氣を疑ふ。ケインズ教のマインドコントロールが解けるまで、危機は何度でも繰り返すだらう。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)