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ゴネ地主を擁護する

あるきつかけで、公開中の映畫『グラッフリーター刀牙(とき)』(藤原健一監督)を都内で觀て來た。正直あまり期待してゐなかつたのだが、これが面白かつた。馬鹿馬鹿しさに徹したところがよい。そしてもうひとつ、市場經濟の本質とは何かを考へるヒントにもなる。
グラッフリーター刀牙 [DVD]
舞臺はスカイツリーの見える東京の下町。さびれた商店街の地中深く、未知のエネルギーをもつ不思議な湯を發見し、大手リゾート會社が買收に乘り出す。一方、謎のカルト集團も、同じ場所に宇宙人が眠つてゐることを突き止め、再開發を利用して目覺めさせようとたくらむ。買收攻勢にあつた住民は一人また一人と店を賣り渡すが、整體醫院を營みながら十五年前に失踪した夫を待ちつづける静江(斉藤由貴)は、絶對に立ち退かないと言ひ張る。息子の刀牙(須藤凌汰)は頼りないフリーターの青年だが、超能力が覺醒し、母とともに反撃に立ち上がる。

金の力に物を言はせて立ち退きを迫る大企業に、頑固一徹の住民が意地でも從はないといふのは、映畫やドラマでよくある展開である。ではここで問題。もし百人の住民のうち最後の一人が土地の明け渡しに應じれば、再開發が實現し、國内總生産(GDP)が年十億圓増えるとしよう。ここで政府が露骨にも、抵抗する住民の土地を強制的に買ひ上げ、開發企業に入札で賣却する方針を公表した。さて、あなたが市場經濟を尊重する立場なら、政府のこの方針に賛成すべきだらうか、それとも反對すべきだらうか。

市場經濟について誤つたイメージを抱いてゐる人は、おそらく「賛成」と答へることだらう。さう考へるのも無理はない。現在經濟學者やエコノミストの多くは、市場經濟の尊重を唱へる一方で、GDPを増やしたり、「公共の福祉」を増進したりするために、政府が強制的な措置をとることを熱心に支持してゐるからである。

しかし市場經濟を本當に尊重するのなら、強制的な買ひ上げを支持するのは間違つてゐる。市場經濟の基礎として何より大切なのは私有財産權であり、合意にもとづかない取引の強制は、その權利を侵すものだからである。

これには次のやうな異論があるだらう。市場經濟は幸福追求の手段にすぎない。私有財産權の制限によつて一人の住民の幸福が損なはれるとしても、それによつて他の九十九人の幸福がそれ以上増えるのなら、私有財産權を制限するのはやむをえないし、むしろ制限すべきではないか、と。これは現在の社會で當然とみなされてゐる考へである。だが誤つてゐる。なぜなら、個人の幸福を互ひに比較したり、合計したりすることは不可能だからである。

幸福の尺度として、精神的豐かさを反映させたといふブータンの「國民總幸福量」が話題になつてゐるが、ある人が別の人に比べ幸福かどうかを客觀的に測ることはできない。幸福とは詰まるところ、個人の主觀によつてしか判斷できないものだからである。

『刀牙』で、リゾート會社は一億圓といふ買收代金を提示するが、静江は土地の賣却を拒む。失踪した夫がいつか歸つて來たとき、すぐ見つけられるやう、昔と變はらない商店街の姿を守りたいと願つてゐるからである。しかし静江の守りたい幸福が、再開發で他の住民が得る幸福と比べて大きいか小さいか、客觀的に測ることはできない。
不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社+α文庫)
リバタリアンの經濟學者、ウォルター・ブロックは『不道徳な経済学』(橘玲譯、講談社プラスアルファ文庫、2011年)で、「土地にしがみつく頑固ジジイ」、もつと惡く言へば「ゴネ地主」を擁護し、「個人間の効用や幸福を比較する科学的基準が存在しない以上……『土地にしがみつく頑固ジジイ』が幸福を害していると主張する合理的な根拠はどこにもない」(215-216頁)と斷じる。そして次のやうに強調する。

交差点の一画に住みつづけ、大渋滞の原因となっている廃屋のような家を見て、多くの人は「公共の福祉」や「幸福の増進」の邪魔だと考える。だが、彼らを批判するのは間違っている。進歩の障害物としてしか描かれない頑固ジジイは、じつは、人類が手にしたもっとも大きな希望――「私有財産権」の象徴でもあるのだ。彼らに対する誹謗中傷の山は、やがてこの死活的に重要な権利の否定へとつながっていくだろう。(208頁)

市場經濟に反感を抱く左翼的な價値觀の人は、私有財産權が人類の「希望」とは大げさだと思ふかもしれない。しかし左翼の多くが支持する、成田空港や沖繩米軍基地周邊での「一坪地主」鬪爭も、曲がりなりにも私有財産權を尊重する社會だからこそ成り立つのである。實際、正當に入手された土地である限り、一坪地主の權利は擁護されなければならない。

似た設定の映畫やドラマと違つて、『刀牙』のすばらしいところは、最初こそ少々汚い手を使つて買收をしかけるリゾート會社側も、防戰する住民側も、政府の權力など借りず、最後は正々堂々、なんとドッジボールで決着をつけようとすることである。下手にシリアスな社會派ドラマなら、こんな展開はありえない(カルト集團のリーダー、ケンドーコバヤシがリゾート會社に取り入るため、ルールも知らないくせに「僕らドッジボールが大好きなんです」と言つた後、「と言ふか、僕らドッジボールですから」と力を込めてつけ足すのが、たまらなくをかしい)。

互ひに超能力を驅使した壯絶かつ滑稽な試合の末、もちろんハッピーエンド。フェアな精神にあふれたB級映畫の佳作に、拍手を送りたい。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)