「經濟對策」が招く危機

日米歐の積み上がつた國家債務に警告を發するジョン・モールディン、ジョナサン・テッパー共著『エンドゲーム』(山形浩生譯、プレジデント社)の「訳者あとがき」で、山形は異例にも、自分が飜譯した同書の主張に眞つ向から異を唱へる。しかしその批判はケインズ主義經濟學の誤つた理論に基づく的外れなもので、本書の貴重な警告を理解する妨げになりかねない。
エンドゲーム ― 国家債務危機の警告と対策
山形による批判のポイントは三點ある。第一に、著者らの豫測に反し、「欧州諸国を除けば、どの国も金利高騰やハイパーインフレなどの気配すらない」といふ事實である。山形は「いつ起こるかわからないというのも本書の主張ではある」と斷りつつ、それでも「あちこちでこれほど連呼している話〔財政破綻金利昂騰とハイパーインフレが起こるといふ説〕を、市場関係者がまったく知らないことは考えにくいし、それを多少なりとも市場での活動に反映させないことも考えにくい」と疑問を投げかける。

たしかに日米の長期金利(國債利囘り)はこのところむしろ低下してゐる。しかしだからといつて、債劵市場關係者が金利昂騰の可能性を「市場での活動に反映」させてゐないわけではない。著者のモールディンらは本文で「世界のトレーディングフロアは、日本の国債が絶対に潰れると信じて日本国債をショートしたトレーダーたちの死屍累々だ」(225頁)と書いてゐる。つまりこれまで結果的には金利上昇の豫想が外れて損を出したものの、多くのトレーダーが日本の財政は破綻すると信じ、日本國債を「ショート」(空賣り)してゐるのである。米國債も同樣だらう。

日米の金利が上昇しない大きな要因として、兩國の中央銀行が非傳統的金融政策といふ禁じ手に踏み切つてまでカネの供給を増やしてゐることがある。しかしその效果は永久に續くわけではない。本文のインタビュー(118頁)でハーヴァード大教授のケネス・ロゴフが指摘するやうに、金利の「爆発」は、「すべてが順調」と多くの人々が言ふときに「突如として」訪れる。山形の批判とは逆に、むしろ市場で金利が低下するときこそ警戒が必要と言へよう。

第二の批判は、財政赤字による國債發行で民間投資がクラウディングアウト(壓迫)されてゐるといふ著者らの主張に向けられる。山形は「いまのように失業が多い状況で、どんな民間投資がクラウディングアウトされているのかは、訳者には見当がつかない」と述べる。だがこれは山形が精力的に紹介してゐるポール・クルーグマン同樣、ケインズ主義の現實離れした經濟理論に基づく亂暴な議論である。

ケインズ主義の主張によれば、人(勞働力)や物(生産設備)などの經營資源が利用されず放置されてゐる場合、それらを「有效活用」するため、政府が財政支出を増やしても民間投資を壓迫する心配はない。なぜなら人や物が餘つてゐるならば、政府が公共事業を増やしても、民間企業が人や物を手に入れにくくはならないはずだからである。人に絞つて言へば、失業がある限り、公共事業が民間投資を壓迫する恐れはないといふことになる。

しかしこの主張は經濟の複雜な過程を無視してゐる。たとへば橋の建設を計劃した場合、必要なのは橋を建造する作業員だけではない。橋を設計する技術者、材料となる鋼板やコンクリートを作る勞働者、材料の切斷、熔接、組立、塗裝などの加工にかかはる作業員、さらに加工に使ふ工具、機械、部品、塗料などを作る技術者や作業員、運搬や電源にかかはる勞働者……と、ここでは書ききれないほどさまざまな智識・職能を持つ人々が缺かせない。

これではいくら失業者が多くても、必要なすべての職能の勞働者を失業者の中だけから見つけるのは無理だらう。だから失業が存在する場合でも、政府が公共事業を増やせば、そこで必要となる勞働者の少なくとも一部を企業から奪ひ、民間投資を壓迫することになる。

山形の第三の批判は、著者らは最終章で、將來バイオや情報技術の發展による「ものすごい繁栄」がやつて來ると主張してゐるのだから、それまでのつなぎとして「財政赤字による景気下支えと、それを支援する緩い金融政策を継続することは完全に正当化される」はずであり、何の政策も打たず「何が何でもみんな痛い目にあって苦労しなくてはならない」と説くのは理解しがたい、といふものである。これもクルーグマンシュンペーターハイエク槍玉に舉げ、繰り返しおこなつてゐる自由放任主義へのケインズ的な批判である。

著者らが描く將來像は、それまで述べた深刻な財政状況の分析と比較してあまりにも薔薇色すぎると私は思ふが、この際それは關係ない。もし山形が主張するやうに、財政政策を擴大し、金融緩和を續ければ、もつと控へめな繁榮すらやつて來ないであらう。なぜなら政府が「經濟對策」をやればやるほど、市場の價格體系を歪めてしまふからである。

上述したやうに、經濟の過程は複雜に入り組んでおり、しかも經濟環境は刻々と變化するから、どの經營資源をどの仕事に割り當てるのが一番無駄と無理がないかは、事業の採算に基づき多數の企業家が判斷し、探つてゆくしかない。ところが政府は事業の採算を考へないので、民間企業なら買はないやうな高い値段で資材を仕入れたり、貸さないやうな低い金利資金を融資したりする。かうした行動は本來あるべき價格や賃金・金利水準を歪め、その結果、企業家は事業の採算を判斷できなくなる。これは自律的・持續的な經濟の恢復を阻害するばかりか、下手をすると新たな經濟危機を呼び寄せる。

私は、譯者が本の内容を批判するのはけしからんなどと言つてゐるのではない。むしろ持論と相容れない著者の主張にはつきり反論する山形の態度は、好ましいと思ふ。問題はその持論を支へる經濟理論が、どれほど權威があらうと、完全に誤つてゐることなのだ。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)