平和の敵は政府

『静かなる大恐慌』(集英社新書)で著者の柴山桂太(滋賀大准教授)は、經濟の自由化・グローバル化は世界を繁榮と平和に導くとは限らず、むしろ國家の對立を高めてしまふ傾向があると主張する。だが柴山は非難する對象を間違へてゐる。國際的な對立を高め、ときに戰爭まで引き起こすのは、自由化・グローバル化ではなく、それを阻まうとする政府である。
静かなる大恐慌 (集英社新書)
柴山は「グローバル化や自由化の果てに国家間の対立が深刻化した、という過去の教訓」(19頁)を強調する。その具體例として舉げるのは、十九世紀後半から二十世紀初めにかけて大幅に進んだ經濟のグローバル化である。この時代、ヒト・モノ・カネの國境を超えた移動は、現代に匹敵するほど活溌だつた。數十年にわたり經濟は繁榮し、同時に比較的平和な時期が續いた。かうした現實を背景に「貿易や投資で強く結びついた世界では、戰爭が起こるリスクは小さくなる」といふ假説が唱へられるやうになつた。

だがここで柴山は、グローバル經濟が平和をもたらすといふこの假説を「安易に信奉することはできません」(55頁)と異を唱へ、「仮説を裏切った事件」として第一次世界大戰を舉げる。大戰が始まる直前、二十世紀初頭のドイツの最大の輸出先は英國で、英國にとつてもドイツは二番目の貿易相手だつたが、それでも兩國は戰爭に突入した。「これは、経済の相互依存が必ずしも平和をもたらすわけではないことの、重要な証拠となるべき事実です」と柴山は強調する。

しかしこの主張が的外れであることは、この後の柴山自身の記述から明らかである。英獨の對立が深まつた背景について柴山は、二十世紀初頭にドイツの工業が輸出を中心に急激に盛んになつたと述べた後、次のやうに書く。

自由貿易の本家だったイギリスでも、ドイツの輸出攻勢への強い不満がありました。1887年の商品標示法では、ドイツ製品には「メイド・イン・ジャーマニー」を標記することが義務づけられました。そうすることでイギリスの消費者を、ドイツの安くて粗雑な製品から守ろうとしたわけです……グローバル化がもたらす経済社会の混乱への人々の不満や反発は、爆発を待つマグマのように蓄積されていたのです。(58-59頁)

柴山は曖昧にしか書いてゐないが、「ドイツの輸出攻勢」に「強い不満」を抱いたのは、いつたい誰だつたのか。英國の消費者でないことは確かである。なぜなら、もし消費者がドイツ製品に「強い不満」を抱いたのなら、「輸出攻勢」と呼ばれるほど大量に賣れるはずがないからである。ドイツ製品は「粗雜」だつたかもしれないが、それでも値段の安さなどから國産品よりも魅力的だと判斷したからこそ、多くの英國民はドイツ製品を購入したのだ。

もうおわかりだらうが、ドイツの輸出に「強い不満」を抱いたのは、英國の競合企業である。柴山は、商品標示法が「イギリスの消費者を、ドイツの安くて粗雑な製品から守ろうとした」などと大まじめに書いてゐるが、これは正々堂々と競爭で勝負できない國内企業が政府と結託し、消費者側に立つたふりをして、輸入品を排除するために用ゐる常套句そのものではないか。一部企業の身勝手でアンフェアな不平・非難にすぎないものを「人々の不満や反発」などと、あたかも社會全體の感情であるかのやうに表現するのは、事實の歪曲である。

柴山はかう反論するだらう。たしかに消費者は得をするかもしれないが、「消費者は労働者でもあ」(100頁)るし、しかも「消費よりも労働のほうが、一般的にいって生きることの充実に関わるもの」である。だから「雇用の劣化や賃金が上がらない」状態をもたらすグローバル化は、やはり社會全體に惡影響が大きい、と。

しかしこの反論は成り立たない。第一に、消費者がすべて勞働者であるわけではない。とりわけ高齢者、障碍者、兒童など社會的弱者と呼ばれる人々の多くは勞働者でないが、消費しなければ生きてゆけない。第二に、勞働に喜びを感じる人はもちろんゐるが、だからといつて、讀書、音樂鑑賞、映畫鑑賞、スポーツ、旅行、ファッションといつた趣味やレジャー(つまり消費)よりも勞働のはうが「一般的にいって生きることの充実に関わる」とはとても言へない。

第三に、輸入品との競爭に敗れた國内企業の從業員は一時賃下げや失業を餘儀なくされるかもしれないが、企業が他の分野に進出するか、從業員が轉職するかして對應できるし、賃下げや失業が長引く場合はなほさら、グローバル化で商品の値段が下がつたはうが、生活は苦しくならずに濟む。

グローバル化による經濟の變化は、一般市民には恩恵をもたらしても、既得權益にしがみつかうとする一部の企業經營者や勞働組合などにとつては、忌まはしい「混乱」にしか見えないだらう。そこで彼らの意を受けた政府は、權力でグローバル化・自由化を阻まうとする。第一次大戰につながる國際的な對立をもたらしたのも、各國政府が採つた關税引き上げなどの保護主義政策だつた。
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これを指して「經濟の自由は戰爭を招く」と主張するのは、まるでシェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』を觀て、「戀愛の自由は死を招く」と感想を述べるやうなものである。責められるべきは自由に戀愛する男女でもなければ、自由に取引する市民でもない。戀愛を不當に妨碍する家長であり、取引を不當に妨碍する政府である。平和の敵は自由ではなく、政府なのである。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)