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謀略なんか怖くない

國際政治學者の中西輝政は『迫りくる日中冷戦の時代』(PHP新書)で、シナ(中西自身は「中国」といふ語を使用してゐるが、「シナ」ないし「支那」が適切であり、これらは差別用語ではない。詳しくは呉智英この文章を參照)は日本に對してさまざまな經濟的謀略・工作を仕掛けてゐると述べ、對抗策として規制の強化やスパイ防止法の制定を主張する。しかし中西が煽る謀略の恐怖には、まともな根據がない。
迫りくる日中冷戦の時代 日本は大義の旗を揚げよ (PHP新書)
たとへば中西は、2010年の漁船衝突事件後にシナ政府がレアアース(希土類)の對日輸出を禁じたとされる件を舉げ、同樣の「対日恫喝」は今後も増えるだらうと警告する(94頁)。しかしそんなことを續ければ、シナは自分の首を絞めるだけである。

報道によれば、2010年の一件以來、日本企業がレアアースを使はない製品や再利用技術を開發したり、調達先を豪州に切り替へたりした結果、今年上半期(1−6月)にシナの對日レアアース輸出は前年同月比で半減した。歐州債務危機を背景に歐米向けも振るはず、シナ企業は軒竝み大幅減益に直面してゐるといふ。

また中西は、同じく2010年のやうにシナ政府が日本國債を大量に賣却し、日本政府に「揺さぶり」をかける恐れがあると指摘する(92頁)。しかし當たり前の話だが、大量に賣却するためには、それに先立つて大量に買はねばならない。國債の消化難を恐れる日本政府は大助かりである。しかも市場で國債が値下がりすれば、發行元の日本政府は直接損をしないけれども、大量に保有するシナ政府は大損する。これでは何のための謀略やらわからない。

同じことは土地の「買いあさり」にも言へる。シナ政府は日本の土地を買へば買ふほど、兩國間の緊張などで日本の土地が値下がりする度に、自分が損をする。もちろんシナに限らず、政治家や官僚は自分の愚かな判斷で招いた損失のツケを國民に囘すことができるが、ただでさへ格差擴大や自由抑壓への不滿が高まるシナでそれをやれば、「アラブの春」の二の舞となるリスクを高めるだけだらう。

だからシナ政府を弱體化させたければ、國債・株式・土地の「買いあさり」は勝手にやらせるのが上策なのだ。もしシナの行爲を制限するため規制を強化すれば、シナ資本ではないことの證明に伴ふ煩雜な手續きを敬遠されて投資全般が減り、日本經濟のはうが弱つてしまふだらう。

經濟的手段を使つた謀略にはつねにコストがかかり、謀略の規模が大きくなればなるほどコストは大きくなる。シナ政府がどれほど謀略に長けてゐようと、その制約から逃れることはできない。ところが中西は、シナは經濟原理に一切縛られない惡魔か超人のやうな存在だと信じてゐる。これではとても、中西自身が強調する「リアリズムに基づく通常の発想」(87頁)とは言へない。

そもそも、これだけ自分の首を絞めるやうな策をすでに一部實行してゐることを考へると、シナ政府の謀略能力そのものが疑はしい。中西によれば、レアアースの禁輸や日本國債の賣却は、シナの最高指導部が政府機關や政府系シンクタンクの研究者に「日本を屈服させるにはどうしたらよいか、案を出せ」と呼びかけたことを受け、出された案だといふ(92−93頁)。事實だとすれば、シナの上層部は揃ひも揃つて間が拔けてゐるとしか思へない。

中西が共産主義國の恐ろしさとそれに對する資本主義國の甘さを印象づけるため紹介する冷戰中のソ聯のエピソード(139頁)は、本來の意圖とは逆の意味で興味深い。米國のメディアを詳細にチェックしたソ聯政府は、米國側の甘いソ聯觀をもとに巧みな對米要求を繰り出し、交渉を有利に運んだ。當時のソ聯書記長、ブレジネフはかう語つたといふ。「座っていてもわれわれは勝利する」

なるほど、共産主義國の冷徹な計算高さ、不氣味なまでの情報分析力に、思はず背筋が凍りつきさうである。ただし、その後ソ聯が崩潰したことを知らなければ、であるが。

ブレジネフは、自慢の情報分析力で對米交渉に座つたまま「勝利」したことにさぞご滿悦だつたらうが、座つた部屋の床がやがて拔けることには、とんと氣づかなかつた。何事においても民間より非效率な政府が、情報分析力だけは勝れてゐるはずがない。ましてや自國の崩潰を防げもしなかつたソ聯と同じ共産主義國の「インテリジェンス機關」を過大評價すべきではない。

今年6月にスパイ疑惑が發覺した在日シナ大使館一等書記官の李春光は、シナ最大の諜報機關である人民解放軍總參謀部第二部所屬のエリートだつたとされる。李が行つたのは、國家機密を盜むといつた「下っ端」の仕事でなく、「もっと重大な任務」、すなはち「日本の政策を変えさせること」だつたと中西は述べる(100頁)。

だがその狙ひが具體的に何だつたかと言へば、拍子拔けなことに、日本のTPP(環太平洋戰略的經濟連携協定)參加決定の沮止だといふ(102頁)。そんな謀略なら、日本の農水族議員、農水官僚、農水業界團體幹部などのはうがはるかに大々的にやつてゐる。いつそこの連中をまとめて國外追放したはうが、大したことのないスパイ一人を捕まへるより、謀略を斷つ效果が大きさうである。

自分で自分の首を絞める外國政府の間拔けな謀略など怖くない。國益を守ると稱して、言論統制につながりかねないスパイ防止法や經濟規制で國民の自由を奪ふ謀略のはうが、よほど恐ろしい。

(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)