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クラブ擁護の理念

音樂といへばクラシックとJポップくらゐしか聽かないダサい男なので、クラブ・ミュージックの智識はないし、クラブに行つたこともない。だから日本でクラブが存續の危機に瀕してゐることなど、うかつにも知らなかつた。磯部涼編著『踊ってはいけない国、日本――風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社)によると、2010年12月の大阪アメリカ村での一齊摘發に始まり、風營法違反によるクラブの摘發が全國に廣がつてゐるといふ。同書は、自由が次第に失はれる日本社會の現實を讀者に突きつけ、考へるきつかけを與へてくれる。
踊ってはいけない国、日本 ---風営法問題と過剰規制される社会
殘念ながら、收められた文章の中には、ひどいものもある。その筆頭が社會學者の宮台真司である。宮台はクラブDJのモーリー・ロバートソンとの對談で、しきりに「警察を悪者にするのは間違い」(48頁)と強調する。それなら誰が惡いかと言へば、「新住民」だといふ。「新住民」とは暴力團、風俗店、有害圖書、終夜營業のクラブなど自分にとつて不快なものの排除を警察に要求する人々を指すらしい。警察は「新住民の愚昧な要求に対応して……権益を拡張した」(43頁)だけであつて、惡いのは愚昧な要求をした住民の側といふわけである。

しかしこれはをかしい。たしかに警察、廣く言へば政府の權力に頼り、不快なものを力づくで排除しようとする住民の態度はほめられたものではない。だが政府がその言ひなりになる必要はない。營業や表現の自由を侵す要求であれば、裁判所による司法判斷を含め、拒否すればよいし、しなければならない。要するに、惡いのは自らの判斷で自由を侵害する政府であり、住民の要求は口實として都合よく利用されてゐるにすぎない。そもそも政府の權限の及ぶ領域が現在のやうに廣くなければ、住民は排除を要求しようなどと最初から考へないだらう。

その點、ライターの松澤呉一はまつたうである。「商店街や公序良俗を是とする団体、あるいは個人の声」(74頁)は警察を「バックアップ」したけれども、警察はあくまでも「警察主導で、これらをまとめあげ」、「『地域住民からの要請』を名目に浄化作戦を進めた」と述べ、警察が主、住民は從といふ關係を正しくとらへてゐる。住民を「クレージー・クレーマー」と揶揄・罵倒する一方で、「主犯」の警察を批判しない宮台の「ヘタレ」ぶりとは大違ひである。

次に宮台は、自由の侵害に「絶対反対」を主張する運動家を批判し、「条件闘争」を推奬する(62頁)。宮台によれば、「絶対反対」を叫ぶのは單なる「アジテーション合唱」であり、「敗北の美学」に醉つてゐるにすぎないといふ。どうも宮台は、營業や表現の自由が、政府による蹂躙を許してはならないぎりぎりの權利であることを全然わかつてゐないやうである。

對照的なのは、思想家・作家の佐々木中である。佐々木は、風營法によるクラブ摘發は憲法第二十二條に定める職業選擇の自由、營業自由權の侵害であり、ダンスとDJといふ表現の自由の規制は憲法第二十一條に違反すると正しく指摘する。そのうへで運動家たちにかう呼びかける。

風営法自体はどう考えても憲法違反なんだから、「法律を守れ」と〔政府から〕言われたら、「いや、法律を守らなきゃいけないのは君たちだよ」と言い返さなくてはいけない。「憲法を守ってください」。はい、終了。すごいシンプル。……話を面倒臭くしてはいけない。逆に「君たちこそ法律を守れ」と執拗に言い続けることが重要だと思います。(129頁)

「シンプル」を旨とする佐々木の主張は、論理的に明快であるばかりでなく、社會運動の指針としても優れてゐる。もちろん現實には正論が通用せず、妥協を強ひられる場合もあるだらう。しかし根本的な理念がなければ、どこまでなら讓つてよく、どこからは讓れないかを見極められない。宮台は念佛のやうに「条件闘争」を唱へるが、指針となる理念については何も語らないし、語れない。これでは「話を面倒臭く」するばかりである。

ただし惜しいことに、佐々木はそのすぐ後で勇み足をしてゐる。それは憲法第二十五條の「生存權」(健康で文化的な最低限度の生活を營む權利)を、營業や表現の自由と同種の基本的權利として評價してゐること(137頁以下)である。營業や表現の自由が個人生活への政府の介入を拒否する眞の自由であるのに對し、いはゆる生存權は政府の介入を積極的に求める事實上の隸從であり、同列には論じられない。

そもそもクラブが摘發された口實の一つは、周邊住民からの騒音への苦情である。最近では「生存權」は靜かな環境で暮らす權利を含むと解釋されてゐるから、「生存權」を擁護すると、政府によるクラブ撲滅にお墨附きを與へかねない。

さて、また宮台である。宮台は騒音に苦情を言ふ住民について「好んで認可保育園の隣に引っ越しておいて、園児の声がうるさいから防音壁を作れなどと言ってくる。テメエが勝手に二重窓にしろ(笑)」(52頁)と批判する。この部分に限れば、言葉遣ひはともかく、趣旨は間違つてゐない。だが現實に問題になるのはこのやうなケースだけではない。

たとへば逆に、もともと住宅地だつたところに保育園が建つても苦情は言へないのか。もともとあつた保育園でも、新しい園長の趣味で突然、大音量でももクロの曲を毎日鳴らすやうになつたらどうか。クラブと周邊住民が直面してゐるのも、同種のややこしい問題のはずである。

この現實的な問題について明快な指針を示した文章は、この本にはない。すでにかなりの長文になつたので、リバタリアンの經濟學者、マレー・ロスバードの見解を簡單に紹介して、終はりにしよう。

ロスバードは、ジョン・ロックが唱へた「開墾原理」(homesteading principle)に基づき議論を展開する。開墾原理とは、人はそれまで所有されてゐなかつた土地を初めて占有し、使ひ始めることによつて、完全な所有權を手に入れるといふ考へである。もとは欧州で千年以上かけて発達した慣習法であり、ロックはそれを體系化した。

廣い空地の中に、周圍にXデシベルの騒音を發する空港ができたとする。そこへ住宅開發業者が現れ、空港近くの土地を買ふ。しばらくして、住宅の持ち主が靜かに暮らす權利を侵されたとして空港を訴へる。この場合、住民の主張は認められない。空港は土地の取得ととともに、慣習法上、業務に伴ひXデシベルの騒音を發する地役權を得てゐたと言へるからである。

一方、騒音がXデシベルより大きくなつた場合、住民は超過分の騒音について空港に差し止めや賠償を求めることができる。空港が開墾で得た地役權はXデシベル分だけだからである。もともとある住宅の近くに新たに空港ができた場合、空港は騒音全體について責めを負ふ。

このやうに明確な慣習法が定着すれば、クラブと住民は政府の介入にあまり頼らず、紛爭を納得づくで解決できる。感情的なしこりも最小限にとどまるだらう。宮台のやうに住民を一方的に「愚昧」「クレイジー」呼ばはりするのでは、クラブと地域社會の良好な共存は望めないし、クラブを守る運動への廣い支持も得られないだらう。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)