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自由で人は孤立しない

自由は個人を孤立させ、社會の絆を分斷するといふ、よくある主張は誤りである。自由が擴大しても、進んで選んだ場合は別として、他者との關係が稀薄になることはない。それどころか、自由な社會でこそ、人はさまざまな他者と知り合ひ、影響し合ひ、助け合ふことができる。社會の絆を斷つ「眞犯人」は、個人の自由を權力で侵す政府である。
知的唯仏論

「砂粒のような個」

最近刊行された、宮崎哲弥呉智英の對談本『知的唯仏論 マンガから知の最前線まで――ブッダの思想を現代に問う』(サンガ)は、佛教にかんするさまざまな俗論を覆す好著だ。しかし殘念なことに、本の最後近くで、二人の評論家は、自由にかんする典型的な俗論の一つを披瀝する。それは、自由が個人を孤立させ、社會の絆を分斷するといふ考へである。まづ宮崎がかう發言する。


主意主義リベラリズムとは、一言でいえば「人それぞれでいいよね」を政治原理、社会原理として受け容れるべし、というイデオロギーです。「人それぞれであること」を唯一の規範とするイデオロギーと言い換えてもよい。「人それぞれ」を侵すものは、国であれ、地方自治体であれ、民間の共同体であれ、厳しく拒否されます。とくに行政府には、成員の「人それぞれ」の価値観に対して中立的であることが求められる。/この主意主義リベラリズム社会的な紐帯を寸断し、人々の孤立を助長し、唯我論的な自我観(負荷なき自我=アンエンカンバード・セルフ)を正当化してきたと、〔マイケル・〕サンデルのようなコミュニタリアンは批判します。私は現代の病根を剔抉し、政治思想の俎上にうまく載せているように思えます。(227頁。強調線は引用者、以下同)

ちよつと補足すると、米國で「リベラリズム」と言つた場合、ふつう、言論や宗教などの精神的自由を財産權や營業などの經濟的自由よりも優位に置く、狹義のリベラリズムを意味する。「主意主義リベラリズム」とは、これに經濟的自由をあらゆる自由の基礎として強く擁護するリバタリアニズムを加へたものである。ここでは「主意主義的」を省いて、たんにリベラリズム、あるいは日本語で自由主義と呼ぶことにする。

宮崎の発言にたいし呉は「そのとおりだと思いますね」と肯定し、次のやうにつけ加える。


「人それぞれでいいよね」という言説が、ひじょうに抑圧が強かった、たとえば終戦期までに出てくるのは理解できないではないんだけど、その先に何があるかってなると、ほんとに「人それぞれでいいよね」だけになってしまう。……「人それぞれでいい」って言うならほんとに唯我論で、砂粒のような個が世界中にあるだけで、なんの秩序もコスモロジーも存在しなくなるわけだからねえ。(227−228頁)

このやうに宮崎も呉も、「人それぞれ」の價値觀を強調する自由主義は、「人々の孤立を助長」し、世界を「砂粒」のやうにばらばらな個人の集まりにしてしまふと考へてゐる。この考への背後には、暗默の前提として、「人それぞれ」の價値觀を持つ個人は、決して他人の價値觀を受け容れないし、互ひに影響もされないといふ思ひ込みがある。しかしその思ひ込みは誤りである。

この誤解ないし曲解は昔からあり、すでに自由主義の側から反論もされてゐる。一例を舉げれば、經濟學者ガルブレイスのベストセラー『ゆたかな社会』にたいする、リバタリアンハイエクの批判だ。ガルブレイスは、人々の欲望が企業の宣傳・廣告などによつて創り出されていくことを「依存效果」と名づけた。これをハイエクはかう批判した。個人の選好は、環境からさまざまな影響を受ける。企業の宣傳・廣告による影響はそのなかの一つにすぎない。だから企業からの影響だけが批判される理由はない、と。つまりハイエクは、自由な個人は他者から影響を受けないといふ考へを否定したのである。

ついでに言へば、「人それぞれ」の價値觀を抱く個人の集團から「秩序」は生まれないといふ呉の主張も、ハイエクは否定するだらう。法や道徳といつた秩序は、特定の權威による一元的な命令でできるのではなく、多くの人々の自由なやり取りを通じて自然に生じるとハイエクは述べた。宗教や文化を異にする民族の間ですら商慣習や國際法といふ秩序が形成されるのであり、同じ價値觀を持つ必要などないのである。

自殺者を救へない?

宮崎は、自由主義についてさらに的外れなことを述べる。


極端な話、この規範〔主意主義リベラリズム〕によれば、目の前で自死しようとしている人物を思い止まらせようとすることすら侵害行為となり得ます。だって生命の価値についての信念も「人それぞれ」ですから、その信念に基づく自己決定を他人が妨げることは、権利侵害に他なりません。この調子で行くと、ビルから飛び降り自殺して、路上で瀕死の状態になっているケガ人をすぐに救護することも控えなければならなくなるでしょう。主意主義リベラリズムの原則に忠実に従えば、負傷者の「助けて欲しい」という意思を確認できない限り、見殺しにするのが「政治的に正しい」、「ポリティカル・コレクトな」対応となりますから。(228頁)

リバタリアニズムでは、個人の身體にたいする權限を持つのはその人自身だけだと考へる。だから自殺を認める。しかしだからといつて、他の者が自殺を思ひ止まらせようとしたり、自殺未遂で瀕死の怪我人を助けたりすることに反對はしない。リバタリアニズムが反對するのは、暴力や權力を使つて個人に特定の價値觀や行動を強制することであつて、相手が自分から價値觀を變へたり、ある行動をとつたりするやう説得することは問題と考へない。それは企業が廣告・宣傳で個人に働きかける自由を認めるのと同じである。

だから目の前で自殺しようとしてゐる人物がゐて、それを思ひ止まるやう説得するのは、自由主義になんら矛盾しない。瀕死の自殺未遂者を助けるのも、自由主義に反しない。相手は「やはり生きたい」と考へ直すしかもしれないのだから。もし意識と體力が恢復し、それでも自殺を繰り返さうとしたとき、思ひ止まるやうあくまで説得するか、死にたければ死ぬがいいと見放すかは、それもまた個人の自由である。

「極端」だけが標的か

もう一點だけ指摘しておく。宮崎は、マイケル・サンデルによるリベラリズム批判を高く評價した後、かう補足する。


サンデルリベラリズム全般を否定しているのではなく、個人の自律性に拘〔こだわ〕るあまり、「惻隠の情」に近い、ごく普通の、コミュニティの生活のなかで育まれた道義感覚を蔑〔ないがし〕ろにするような極端なリベラリズムを批判しているのです。(228−229頁)

果たしてサンデルが批判してゐるのは、宮崎が言ふやうに、「極端な」自由主義だけなのだらうか。サンデルの本を少し讀みさへすれば、それが嘘であることはすぐにわかる。たとへば『公共哲学――政治における道徳を考える』(鬼澤忍譯、ちくま学芸文庫、2011)で、このハーヴァード大の人氣教授はこんなことを書いてゐる。


大きいが価値のない構想とは、ボブ・ドール〔共和黨大統領候補〕の減税案の核心にあるもので、人びとは稼ぎのうち手元に残す分をもっと増やすべきだという考えだ。そうすべき理由は、はっきりしない。……財政赤字と満たされていない公共のニーズを考えれば、政府にはお金が必要である。……減税以上の目標を示していないドールは、大統領候補指名受諾演説での立派な宣言――大統領たるもの、物質よりも道徳を重んじるべきである――に背いている。……一人当り数百ドルを個人消費に回すことで、どうしてアメリカ人がもっと自由になれるのかを理解するのは難しい。(82頁)

財政赤字を垂れ流す無駄遣ひの得意な政府から、せめて「数百ドル」だけでも自分の稼いだ收入を取り戻したいと望むことが、理解に苦しむほどの「極端なリベラリズム」であるはずがない。

たしかにリバタリアニズムは、麻藥や賣春、臟器賣買の合法化といつた「極端な」自由を主張する。しかしそれは自由主義の首尾一貫した哲學から導かれる結論を正直に述べてゐるにすぎない。言ひ換へれば、これらの「極端な」自由が許されない社會では、それ以外の自由も安泰ではないことを、リバタリアンは知つてゐるのだ。
サンデル教授、ちょっと変ですよ――リバタリアンの書評集 2010-12〈政治・社会編〉 (自由叢書)
一方、サンデルが『これからの「正義」の話をしよう』『それをお金で買いますか』といつたベストセラーで繰り返してきたのは、自由主義の「極端な」結論だけをクローズアップし、それに理詰めの反論はしないまま、ひたすら一般讀者の感情的な反撥を煽り、それによつて自由主義そのものへの不信感を植ゑつけるといふ、言論人としてきはめて不誠實な、しかし巧妙な戰術だつた。しかし上記の減税策への反對で明らかなやうに、「極端な」自由への批判は突破口にすぎない。眞の狙ひは、自由のすべてとは言はないまでも、その大半を否定することにあるのだ。政治哲學を專門の一つとしながら、サンデルの策略を見拔けない宮崎は、甘いと言はざるをえない。

問題は政府である

宮崎と呉は、現代社會で人間が孤立することを強く懸念してゐるやうである。それに宗教的にどう答へるべきかはわからないが、自由主義の立場からは、三つのことが言へる。第一に、もし孤立が個人の自由な選擇の結果であるのなら、本人はそれに滿足してゐるかもしれない。もしさうなら、他人が御節介を燒く必要はない。

第二に、自由な選擇の結果であつても、現在は孤立に苦しんでゐるかもしれない。もしさうなら、誰かに助けを求めればよい。あるいは氣づいた誰かが手を差し伸べればよい。すでに述べたやうに、自由な社會では、個人が人を説得したり、助け合つたりできるのだから。

第三に、もし孤立が自由な選擇の結果でなく、誰かの強制によつて生じたものだとしたら、これは問題である。この「誰か」は、私的犯罪者の場合もあるかもしれないが、現代において、個人に強制力を及ぼすことができる最大の主體は、政府である。

政府といふ人間集團は、個人の收入の一部を税として強制的に奪ひ、經濟生活の基盤を弱める。實物資産の裏附けのない貨幣を増發し、個人が保有する貨幣の價値を薄め、財産權を侵す。貨幣發行で持續性のない好景氣を起こし、有限の資源を浪費し、反動で不況をもたらす。最低賃金制度や解雇規制で勞働市場を硬直化させ、働ける人々を仕事から締め出す。目先の政治的人氣を得るためにカネをばらまき、將來世代に重い負擔を課す。

もし人々が經濟的な苦境に追ひ込まれ、それが原因で孤獨と不安に苛まれてゐるとしたら、その「病根」は、自由にではなく、政府にある。自由主義にではなく、自由を縛る國家主義にある。殘念ながら私たちは、自由がありすぎて困るほどの極樂淨土には住んでゐないのである。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」でも公開)