『國富論』を稱へるな

前囘述べたとほり、アダム・スミスは『國富論』で、經濟學的に重大な誤りを含む議論を展開してゐる。『新・国富論』の浜矩子はこれらの議論に言及してゐるが、誤りであることを知らないらしく、批判するどころか、偉大なスミス先生の御説はやはりすばらしいとばかりに禮賛する始末である。
国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)
勞働價値説
重大な誤りは少なくとも二つある。一番目は、勞働價値説である。これは、商品の價値はその生産に投入された人間の勞働が生み出すものであり、したがつて商品の價値は、そこにどれだけの勞働が投入されたかによつて決まるといふ考へである。『國富論』第一篇第五章で述べられてゐる。

浜は勞働價値説について「あらゆるタイプの経済議論の“超前提”」(76頁)と持ち上げる。まるでいまでも現役の優れた洞察であるかのやうな書きぶりだが、そんな事實はない。本來なら素人の誤解を正すべき經濟學者の浜は、讀者に向かひ「フムフムそうそう、そうだよな、とスンナリ受け止められていると思う」(75頁)などと素朴な感覺にもとづく謬論を押しつける。

しかしこの説が完全な間違ひであることは、少し考へればわかる。すぐにぶちあたる問題は、同じ勞働時間でも、樂な仕事ときつい仕事で勞働の價値が同じなのはをかしいといふことだ。スミス自身もこれに氣づき、勞働の種類が違ふ場合、勞働時間だけでなく、「労働の厳しさや創意工夫の程度」(山岡洋一譯『国富論』上卷、日本経済新聞出版社、33頁)を考慮しなければならないと書く。そして實際、種類の違ふ勞働で作られた異なる商品を交換する際には、これらを考慮した調整がおこなはれてゐると言ふ。

そんな調整が可能だらうかといふ疑念を豫期して、スミスは大急ぎでつけ加へる。「とはいっても、正確な尺度によって調整されるのではない。正確ではないが、日常的な仕事を進めていくには十分な概算にしたがって、市場での駆け引きや交渉によって調整されているのである」(同)。だがこれは循環論法(circular reasoning)だとマレー・ロスバードは指摘する。市場での商品の價値(價格)は勞働量で決まると言ひながら、その勞働量を計算するために、「駆け引きや交渉」で決まる市場價格を持ち出してゐるからだ。

スミスの勞働價値説は、その後マルクスに受け繼がれ、商品の價値を生み出すのは勞働者なのに、資本家がその一部を利潤として搾取してゐるといふ社會主義理論の基礎となる。社會主義が世界にもたらした害惡の大きさを考へれば、スミスの責任は重い。

浜は勞働價値説がマルクスに受け繼がれたことに觸れてはゐるものの、誤りといふ認識がない。それどころか、百圓ショップやユニクロなどファストファッションの成長で安い商品が増えた結果、本來は商品價格を押し上げるべき勞働の價値の方が下がつたと的外れにも憤り、勞働價値説が「いまや瀕死の状態に追い込まれている」(237頁)と歎く始末だ。

分業論
誤つた議論の二番目は、分業についてである。スミスは『國富論』の最初の三章を分業の解説にあて、分業が社會の豐かさを高めると指摘する。分業の效果を説いたのはスミスが初めてではないが、その重要性を強調したことは評價できる。

ところがスミスは、『國富論』の前半でこれだけ分業の利點を強調し、社會の繁榮だけでなく人々の專門性や智識の増進をもたらすと評價したはずなのに、後半(第五篇)では人間の知性や道徳心を損なふと非難する。こんな調子である。

分業が進むとともに、労働で生活している人、つまり大部分の人の仕事は、ごく少数の単純作業に限定される……このような仕事をしていると、考え工夫する習慣を自然に失い、人間としてそれ以下になりえないほど、愚かになり無知になる。頭を使っていないので、知的な会話を楽しむことも、そうした会話に加わることもできなくなるだけでなく、寛大な感情、気高い感情、優しい感情をもてなくなり……大きく複雑な問題については、まったく判断できない。(邦譯書下卷、368頁)

浜もさすがにとまどつてか、分業論と明記してはゐないが、「書いていくうちに考えが変わったり……直し切れないまま、出版物となってしまったこともあったろう」(77頁)などと辯護してゐる。だがだからといつて、前後の矛盾といふ事實は變はらない。

好意的に解釋すれば、浜が書くやうに、「分業の効用を力説しながら、一方でその発達がもたらす社会的退行についても、目配り」(100頁)したと言へなくもない。しかしだとしてもスミスの考へは間違つてゐる。もしスミスの言ふとほりなら、かれの想像を絶するほど專門化と分業が進んだ現代では、人々の大半は知的關心を失ひ、堅めの出版物などとつくに消滅し、高尚な文化の愛好家はゐなくなり、學術系や言論系のウェブサイトやブログも普及しなかつたことだらう。一見どんな單純作業でも、うまくやるには工夫が求められ、智識の習得が缺かせないことを、スミスは知らない。
毛沢東の大飢饉  史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962
分業が人間を駄目するといふスミスの主張は、これまた社會主義に引き繼がれ、世界に害惡を及ぼす。たとへば毛澤東は文化大革命で分業廢止と自給自足を唱へ、その結果、經濟を破壞し、大饑饉を引き起こした。しかし浜はスミスの誤りをそのまま繰り返し、「人間を知的マヒ状態に追い込む分業の怖さ」(100頁)などと書く。怖いのは分業否定のはうである。

大きすぎる缺陷
もちろんスミスは良いことも書いてゐる。個人的利益の追求こそ社會全體の利益と發展につながると論じた箇所(第四篇第二章)は、内容に獨創性はないとしても、正しい指摘だし、有名な「見えざる手」の譬喩により讀者に鮮烈な印象を殘す。それでも全體としてみた場合、名著と呼ぶには缺陷が大きすぎる。古典の權威に引きずられ、『國富論』を名著と稱(たた)へ、アダム・スミスを賢者と崇めるのは、愚かなことである。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)