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サンデル教授、ちょっと変ですよ

電子書籍サンデル教授、ちょっと変ですよ――リバタリアンの書評集 2010-12〈政治・社会編〉より、「はじめに」を転載〕
サンデル教授、ちょっと変ですよ――リバタリアンの書評集 2010-12〈政治・社会編〉 (自由叢書)
本文でも取り上げるマイケル・サンデルハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』という本で、政府による課税と再分配を支持する日米の学生が、別々の授業であるにもかかわらず、同じ「社会」という言葉を同じ文脈で口にする。こんな具合だ(強調は引用者)。

プロバスケットボール選手のマイケル・〕ジョーダンのような人は社会から一般の人よりは大きな贈り物をもらっているのですから、再分配によってそれを返す、より大きな責務を負っていると思います。(米国)

政府は貧しい人に最低生活水基準を保障する役割を担い、それを実現するためには社会の誰もが協力しなければなりません。そもそも、金持ちになれた理由は社会が機会を与えてくれたからです。(日本)

二人の学生に共通するのは、社会の意味を誤解していることである。社会とは、法的に対等な個人と個人が自発的に協力することによって成り立つものである。

だから社会でまっとうに生きる人間が何かを得るとしたら、それは他人が自発的に与えてくれたからである。マイケル・ジョーダンマイクロソフト創業者のビル・ゲイツが多額の収入を得ているのは、多くの人々がジョーダンのプレーやゲイツの製品を素晴らしいと評価し、それに対価を支払ったからである。

それゆえジョーダンやゲイツは、自分が稼いだ財産の一部を再分配の原資として政府に差し出す義務はない。なぜなら、他の学生が指摘するとおり、「ジョーダンのプレーを見ることで、社会は多くの楽しみを得ており、ジョーダンはすでに社会に借りを返している」し、同様に、ゲイツの製品を使用することで、社会は多くの利便を得ており、ゲイツは「すでに社会に借りを返している」からである。したがって、ジョーダンやゲイツが再分配によって社会からの「借り」を返すべきだという最初の学生たちの主張は間違っている。

それでは貧しい人々を救えない、という反論があるかもしれない。それも誤りである。政府を通じなくても、個人が貧しい人々に自発的に寄付をするのは可能だし、現に行われているからである。またそれ以前に、裕福な個人はおもに企業の経営や企業への投資を通じ、安くて品質のよい製品やサービスを大量に供給することにより、貧しい人々の生活を楽にしている。

一方、自発的な協力でなく、強制によって成り立つのは、社会でなく、国家である。国家においては、政治家や官僚といった政府を構成する個人が、それ以外の個人から税という名目で強制的に金銭を奪う。なぜなら彼らは、他の人々が喜んで対価を払いたくなるような魅力ある商品やサービスを提供することができないからである。

ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、社会と国家の違いをよくわきまえていた。彼は、人間が欲求を満足させるためには二つの方法があると述べた。一つは、自分で労働して欲しい物を作るか、その物を他人の物と交換する方法で、これを「経済的手段」と呼ぶ。もう一つは、他人の労働の成果を暴力や脅迫で奪う方法で、オッペンハイマーはこれを適切にも「政治的手段」と呼んだ。社会は経済的手段によって成り立ち、国家は政治的手段によって成り立つ。

強制によって人間同士の信頼関係は生まれない。人間が幸福かつ平穏に暮らすために必要なのは、自発的な協力であって、強制ではない。経済的手段であって、政治的手段ではない。社会であって、国家ではない。その意味で、政治と社会をはっきり区別することは、物事を正しく理解するうえで、きわめて大切である。

本書のテーマは、その「政治」と「社会」である。前著『デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉』と同じく、リバタリアニズム自由主義)の立場から、明確な主張を打ち出したつもりである。経済をテーマとした前著では、物事を考えるよりどころとしてオーストリア学派経済学の研究成果を役立てたが、今回はマレー・ロスバード(1926-1995)に代表される、自然権リバタリアニズムの思想に多くを負っている。オーストリア学派の経済学者であると同時に、自然権リバタリアニズムの哲学者でもあったロスバードは、私にとって思想の英雄である。
デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)
収録した文章は、前著同様、個人ブログ「ラディカルな經濟學」で公開した記事から、政治・社会をテーマとした本の書評を選んで加筆・修正を施し、書き下ろしを加えたものである。またマンガ評と映画評も収めた。

第一章は、上述したマイケル・サンデルの著作への批判を収め、関連する書評も一本加えた。第二章は、政治の最も露骨な形態といえる、戦争にかかわる書評を集めた。第三章は、社会をテーマとする書評を収録し、原子力発電問題に関する本の感想もここに入れた。第四章は、現代のタブーである民主主義批判をテーマにした文章などを収めた。最後の第五章、第六章はそれぞれマンガ評と映画評(映画に関する本の書評が一本ある)を収録した。肩のこらない軽妙な文章をお楽しみください、と言いたいところだが、中身は結局、マンガや映画にかこつけて政治、社会、経済についてクソまじめに論じたもので、最後まで野暮な文章のオンパレードである。それを承知でおつきあいいただければ幸いである。

ブログは歴史的かなづかい、正漢字で書いているが、電子書籍化にあたり表記を改めた。引用元などへのリンクは原則割愛したので、関心がある方はブログを参照してほしい。ブログでの公開日は原則として2010年から2012年までの三年間だが、『遠くにありて』『トイ・ストーリー』の二編はともにインターネットで物を書き始めた頃の2000年の文章である。リバタリアニズムとはあまり関係ないが、捨てがたい懐かしい文章なので入れた。前著同様、取り上げた本やマンガ、映画は自由主義の視点から★印で五段階評価してある。

Amazon.comなど海外サイトでの題名はThe Strange Justice of Sandel: Libertarian Book Reviewで、著者名はTakashi Kimura。Amazon.comでのURLは http://www.amazon.com/dp/B00BMRSHYG/ です)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)