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新自由主義者の意地

經濟

今年1月に死去した經濟學者、加藤寛慶應義塾大學名譽教授)の遺作『日本再生最終勧告――原発即時ゼロで未来を拓く』(ビジネス社)が刊行された。副題にあるとほり、加藤は本書で原子力発電の即時停止と廢爐を主張してゐる。加藤がかつて自民黨政權のブレーンだつたことを知る讀者は、自民黨の方針に反するこの主張を意外に思ふかもしれない。だが加藤は、政府が經濟に介入することを嚴しく批判してきた自由主義的な經濟學者であり、その持論と本書の主張は完全に首尾一貫してゐる。原発は政府が實質支配する國策民營にほかならないからだ。
日本再生最終勧告 ‐原発即時ゼロで未来を拓く
小さな政府を唱へる「新自由主義」經濟學者の代表といへば、今は竹中平蔵だらうが、ひと昔前はカトカンこと加藤寛だつた。自民政權で臨時行政調査會部會長として國鐵(現JR)民營化を推進し、國鐵勞組をはじめとする左翼からは目の敵にされた。そんな經緯から、加藤を自民黨べつたりの保守派御用智識人と見る向きが少なくなかつた。正直な話、私も昔はさう思つてゐた。だがしだいに印象が變はり、今囘の遺作でそれは決定的となつた。加藤は自由主義者としての意地を貫いたのである。

加藤自身、自分の主張が「あの自民党政権のブレーンだった加藤寛がなぜ」といふ反応を招くだらうと見越して、次のやうに釘を刺してゐる。「世論におもねって、あるいはウケをねらって、突然『原発即時ゼロ』を言い出したわけではない。原発事故が起きたから、それまでの考えを改めて原発ゼロを言い出したのでもない。長年の実践的学究から導かれる当たり前の判断なのだ」(11頁)

それでは、原発ゼロの判斷を導いたのはどのやうな研究なのか。加藤が最も強調するのは公共選擇論である。1986年にノーベル經濟學賞を受賞した米國ジェームズ・ブキャナンが提唱した。政治が市場經濟に介入する必要があると主張する從來の經濟學では、「経済政策は、無私で少数の経済に明るい賢人たちによって立案・実行される、またされるべき」(ハーヴェイロードの前提)だと考へる。しかし公共選擇論ではさうした考へをとらない。政治を動かす政治家、官僚などもまた、利己的利益の極大化を目指す個人と想定する。これは政治家や官僚を無私の賢人と想定するより、はるかに現實に近い。

公共選擇論によれば、政治の主要プレーヤーは以下のやうに行動する(77-78頁)。まづ政治家は、手にできる所得、名聲、權力を追求するため、選舉において得票ないし支持率を最大にするやうな行動をとる。次に官僚は、給與、昇格、威信、許認可權などをより多く手に入れようと、所屬機關の豫算規模を最大にするやう行動する。そして企業は、私的利益を追求するため政治過程に働きかけ、政治的權益(公共サービスの受注、補助金の受領、競爭相手の參入規制など)を獲得しようとする。これら三者は「鉄のトライアングル」を形成して結託し、市場を通さない政治的決定により、市場が決めるよりも多い利潤(レント)を得る。この代償として市場は非效率になり、國民の經濟的幸福は減少する。

戰後の原子力政策における主要プレーヤーの行動パターンは、まさに公共選擇論のこの想定と一致するとして、加藤は具體的にかう指摘する。「自民党を中心とする政治家は経産省を中心とする官僚と結託し、企業(産業)、つまり電力業界と原子力事業者に、参入規制、価格規制、補助金、優遇融資、税制上の優遇措置、損害補償、等のレントを立法を通して提供する。その見返りに、企業(産業)は、政治家には政治資金と票を提供し、官僚には天下り先を提供する。また、こうした規制や財政による施策は官僚の所属機関の権益を拡大しそれ自体が官僚の効用拡大につながる。こうして原子力政策における鉄のトライアングルが形成される」(109-110頁)

見逃してならないのは、加藤が戰後の原発政策を振り返る際、「原子力ムラ」の創生期に重要な役割を果たした政治家として、かつてブレーンとして仕へた中曾根康弘の名前をきちんと出してゐることである(82-83頁)。

また加藤は、原発が相對的に低コストであるといふ政府などの主張も「作爲された『神話』」にすぎないと批判する。たとへば經産省が過去數度にわたつて公表した試算では、原子力の発電單價が最も安價となつてゐるが、「電源三法による国庫からの支出、いわゆる国民が負担している社会的費用が入っておらず……試算の恣意性が疑われる」(103頁)。世間でやはり新自由主義經濟學者と見られてゐる原発擁護派の池田信夫は、税金を注ぎ込んだ研究開発や立地對策などのコストを原発のコストから除けと的外れな主張をしたが、それとは大違ひのまつたうな批判である。使用濟み核燃料についても、加藤は「処理ができないということは、経済的にはその保管費用・処理費用は無限大にのぼる」(155頁)とその厖大なコストを指摘する。

以上のやうな檢討を踏まへ、加藤は「原発即時ゼロ」を次のやうに明確に宣言する。

国民の負担を考えると、原発を再稼働する必要などなく、むしろ一刻も早く、原発廃炉にすることが、経済的に正しい。(155頁)

そのうへで加藤は、原発がなくても火力発電だけで電力が十分に供給可能であることは、関西電力大飯原発再稼働の際、火力を停止したことで實證されたと指摘する。そして戰後、電力會社の「経営の自主性がどんどん希薄化していった」ことが「福島のような事態を生じさせた遠因」となつた反省を踏まへ、眞の自由化により「生き生きとした経営の自主性が発揮される」やう望む(117-118頁)。

ラディカルな自由主義者を自認する私からみると、本書には「市場には限界があり、その点の補完は政治プロセスによるしかない」(24頁)、「〔現代は〕企業の利益追求が、そのまま公共の利益をもたらすという保証がなくなっている」(154頁)など、首肯しかねる記述も散見される。しかしそれでもなほ、「電力への官の介入と管理をはねのけ……国民の手に安全な電気を取り戻さなければならない。……少なくともその端緒を見届けないかぎり、私は死んでも死にきれない」(157頁)といふ加藤の痛切な言葉には、襟を正さずにゐられない。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)