平和主義を手放すな

平和主義といへば、日本國憲法の基本原則にも掲げられる考へ方だが、最近すこぶる評判が惡い。東アジアの國際情勢が緊張する中で、現實味のないユートピア主義にすぎないとの見方が、智識人だけでなく、一般の人々の間でも強まつてゐる。しかし平和主義は、時代遲れの捨て去るべき思想ではない。人々から支持され、説得力もある國際關係の指針となりうる。
平和主義とは何か - 政治哲学で考える戦争と平和 (中公新書)
それを理解するために、最近出版された松元雅和『平和主義とは何か――政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書)が役立つ。政治哲學者である松元は、平和主義(暴力ではなく非暴力によつて問題解決をはからうとする姿勢)へのさまざまな批判を取り上げ、それらがじつは論理の飛躍や誤解に基づくことを、明晰な文章で指摘してゆく。とくに興味深い論點を四つ紹介しよう。最初の三つは、「戰爭は殺人だから、個人の殺人と同じく許されない」といふ義務論に基づく平和主義にかかはる。

第一に、「愛する人が襲われたら」といふ批判である。これは平和主義者に「家族や恋人が目の前で暴漢によって襲われようとしている場合でも、はたしてその信念を貫くことができるのか」と問ひつめ、暴力を容認させることで、平和主義が一貫性のない現實離れした理想にすぎないと印象づけようとする。

これに對し松元は、一部の絶對平和主義者を除き、平和主義者は正當防衞の暴力まで否定するわけではないと述べたうへで、上記の批判では、家族や戀人がかかはる私的場面と、國家がかかはる公的場面が「(故意に)混同されている」(23頁)と指摘する。現實には「一方で、私的レベルでの暴力抵抗では、目的と手段、理由と結果が明瞭に連結している。他方で、公的レベルの暴力はそうではない。軍隊に参加したからといって、自分の家族や恋人を守るために働くわけではない」(24頁)。したがつて、家族や戀人を力ずくで守ると答へたからといつて、ただちに戰爭をも容認するべき理由にはならない。

第二に、敵國兵士の殺害である。ある國が他國を侵掠しても、侵掠された國は侵掠國の個々の民間人を攻撃することは許されない、と平和主義者は主張する。なぜなら個々の民間人は、侵掠國の開戰の決定に關して責任をほとんど直接的には負つてゐないからだ。ここで非平和主義者が述べる。よし民間人は分かつた。しかし侵掠國の個々の兵士は民間人と異なり、侵掠の手先になつてゐる。だからたとへ侵掠國兵士を殺害したとしても、それは免責されるのではないか、と。

これに對し松元は、次のやうに述べる(60-63頁)。個々の兵士が侵掠といふ決定に關與した責任は、民間人よりも大きいわけではない。徴集により、自分の意思に反して嫌々ながら侵掠戰爭に參加してゐるのかもしれないし、政府の巧みな情報操作により、侵掠戰爭を自衞戰爭だと思ひ込んでゐるのかもしれない。たとへ侵掠政策に賛成し、自發的に軍隊に加はつてゐたとしても、民間人と同樣、政府の政策決定からは十分に遠い、と。したがつて、平和主義者が、民間人のみならず個々の兵士への攻撃も許されないと主張するとき、それは筋が通つてゐるのである。

第三に、自衞戰爭は正しい戰爭かといふ問題である。そんなことは自明だと多くの人は思ふだらう。しかし政府が、國民が被るいかなる人的・物的被害も省みず、侵掠國に對する自衞戰爭を強行するとなれば、話は別だと松元は指摘する。

一國家の設立目的が國民の權利の保障にあるとしたら、「その国の政府が、自国の領土と主権を遮二無二守るために国民の犠牲を要求することは、当初の設立目的と根本的に矛盾している」(115頁)。自國政府から「全滅してでも戰へ」と強ひられた場合、國民は考慮の末、自衞戰爭よりも降伏を望むかもしれないし、それは正當な選擇である。だとすれば、自衞戰爭がつねに正しいとは限らない。

以上の議論で、平和主義が、政府と國民を明確に區別してゐることがわかる。兩者を混同する國家主義的議論よりも、はるかに論理的だといへる。

しかしそれでもなほ、第四の論點として、こんな主張がありうるだらう。現實の國際關係においては、戰爭に踏み切ることが賢明といへる場合がありはしないか。敵國は邪惡な意志をもち、侵掠の意図は明白であり、外交交渉の餘地は薄く、逆に開戰すれば勝利の見込みは高い。そんな場合なら、戰爭は最善の手段になりうるのではないか、と。これは、人を殺してはならないといふ倫理觀に訴へる義務論的平和主義に對し、國際紛爭の解決手段として戰爭が實現しうる便益の大きさを強調する行き方である。

だがこれに對しても、今度は戰爭の損得勘定に基づく歸結論から、平和主義は反論を用意してゐると松元は言ふ。短期的にはともかく、「中長期的な帰結を予測すれば、その場合の開戦が賢明かどうかは、依然として定かではない」(81頁)。むしろあらゆる戰爭は、次の戰爭の遠因となりうる。たとへば、英國の小説家H・G・ウェルズが「戦争を終わらせるための戦争」と呼んだ第一次世界大戰は、第二次世界大戰の遠因となり、第二次世界大戰は中東戰爭の遠因となり、中東戰爭はイラン・イラク戰爭の遠因となり、イラン・イラク戰爭は灣岸戰爭の遠因となつた。

ここで思ひ起こされるのは、ジャーナリスト、ヘンリー・ハズリットの經濟學に關する言葉である。「経済学とは、政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また、一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える学問である」。しかし優れた經濟學者と違ひ、政治家は戰爭の長期的影響をしばしば讀み誤るか、そもそも自分の任期を超える長期的影響について考へようとしない。

だとすれば、「國權の發動たる戰爭」(日本國憲法第9條)を許さない平和主義は、國際關係の指針として、今なお「魅力的な選択肢のひとつ」(224頁)と言はねばならない。松元はそれ以上踏み込んでゐないが、國防は政府に任せず、民間で(非暴力的抵抗を含め)行ふのが、正しく賢明なあり方なのだ。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)